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海賊の娘
<2>

 14年前、10歳になったアレックスは、父の供で初めての航海へ出た。海は、すっかり少年を魅了した。もしかしたら彼に流れる血がそうさせたのかもしれない。しかしそれはまだ幼い少年のこと、そろそろ故郷を恋しく思い出し始めていた。

 アレックス達の祖先は、ほんの百年程前まで陸で暮らすことを知らぬ海賊だった。だが、周辺諸国が礎を固め国力を増すと、次第に彼らの暮らしは困難の道を進み始めた。そこで大陸から海を隔てたアクロス島にいつしか定住するようになったのだ。彼らの持つ優れた航海技術は、略奪から貿易へとその目的を大きく変えたのだった。
 大陸から深い海溝で隔てられたアクロス島は、比較的大きな島である。島の南側には山と谷があり、清水が湧き出る川もある。島の東西には、白砂の美しい浜辺が長々と横たわっている。そして島の北側は深く切れ込んだ天然の港があった。海を知り尽くす海賊達が居を構えるのに、これほど適した島はなかっただろう。
 また何者にも縛られない海賊達は、当時では考えられないほど自由な発想の持ち主でもあった。そういった気質は貿易でも大いに生かされ、良い結果をもたらした。
 アクロス島は、自由貿易で富をなしどこの国にも属さなかったが、大陸の国々に立ち向かうにはいささか不利だったので、大陸の南沿岸の交易の盛んだったラグナ王国の属州となり、取り決められたかなりの額にのぼる税を納めてはいるが、それで彼らの暮らしが大きく変わることはなかった。

 甲板の手摺を掴んで、アレックスは海原を見つめながら故郷に思いを馳せていた。船が残す白い軌跡が消えていくのを見るとはなしに見ていると、いつの間にかロバートが隣に立っていた。
「来るな」
 白い軌跡が消える海原のずっと向こうに、灰色の陰気な雲が湧き立つように見えていたと思ったら、あたりはすっかり暗くなっている。まだ明るい時刻のはずだが、まるで宵闇のようである。4隻のギャレオン船からなるアクロスの貿易船団は、長い航海を経て帰港の途中だ。順調な航海だったが、最後に大きな嵐に出会うとは不運なことだ。なんとか嵐を避けようと一番近い港へと急いでいたが、間に合いそうもない。強い風を捕らえて大きく膨らんでいた白い帆はたたまれて嵐に備えていた。

 縦と言わず横と言わず、船は縦横無尽身に揺れ続けた。雷鳴がまるですぐそばの海面から上がったかのように、空気をびりびりと震わせる。3本のマストに落雷しませんようにと祈りながら、アレックスは自分に与えられた船室の備え付けの簡易ベッドに身体を縛りつけて揺れに身を任せていた。投げ出されないようにするためだったが、船自体が大きく揺れるので、あちこちをぶつけるたびに罵ったがそれも嵐の前では全く役に立たなかった。
 彼は海の本当の恐ろしさを初めて知った。島にいるときも嵐はよくやってくるが、大地があるのとないのとでは雲泥の差である。海の前では人間などちっぽけなものでしかなく、ただこうしてなす術もなく祈るしかないのだと、自然の驚異は彼の体に教え込んだのだった。

 どうにか夜が明けると、嵐がまるで夢の中の出来事だったように海は凪いでいた。甲板では嵐の後始末のために船員達がせわしなく動き回っている。彼らは誰に命令されなくとも何をすれば良いか分かっている、生まれながらにして海の男達である。
 4隻の船団は、散り散りになってしまったが、こういった場合は次の港で待つことが決まりだったので、ロバート達の乗る主船も、目的地へと帆を広げたのだった。微風を捕らえるため、帆の角度を微妙に調節すると、ようやく船は動き出した。
「左舷に船影ーっ」
 檣楼主の声が甲板に響き渡ると、左舷側にどっと人々が集まる。
「マストが折れているようです」
 いまだ甲板からその姿は見えないが、高いマストからはその様子が見えるようだ。
「寄せろ」
 ロバートがまだ見えぬ水平線を見やりながら言うと、船長が面舵の指示を飛ばす威勢の良い声が聞こえた。やがて甲板からも船の様子を捉えることが出来た。ゆっくりと近付くにつれてその異様な姿が嫌でも目に付いた。大砲による攻撃に加えて、昨夜の嵐の影響もあるのだろうが、それは彼らからすればあまりにも異様に見えるのだった。
「海賊の仕業でしょうか、父上?」
 アレックスは、その船を見つめながら父に問うと、いや、とすぐに否定の答えがあった。
「この辺りで海賊の噂は聞いたことがない。それに海賊ならばあそこまで船を攻撃しないだろう」
 その船は、アレックス達の乗るギャレオン船よりも一回り大きかった。ここまでの大きな船だと、造船には途方もない時間と金が必要だ。海賊ならば船を痛めつけずに自分達で使うだろう。マストと思しき残骸が4本、甲板から突き出している。大砲も左舷と右舷にそれぞれ4門ずつあるが、どうやら船を守ることは出来なかったらしい。徹底的に砲撃にさらされたようである。甲板には人影が全く見えない。
「着けろ」
 ロバートの命令で、船員達が鉤爪のついたロープを何本か投げて、船を引き寄せると操る人のいない船はあっという間に左舷に横付けにされる。
「生存者がいるかもしれん」
 そう言うと、ロバートは息子のアレックスと、何人か腕に覚えのある船員を連れて乗り移った。あちこちに大きな穴の開いた甲板は静まり返っていた。波にあわせてぎぃぎぃと不気味に船が軋む音だけが聞こえる。手分けして船内の捜索が手際よく始められたが、船倉には積荷はほとんど見当たらなかった。
 ロバートとアレックスは船室に入っていったが、ここにも全く人の気配がない。謎ばかりが残るが、彼らも先を急がなければならない。片っ端から船室のドアを開け生存者の姿を探していると、一番奥の船室からかすかな物音が耳に届いた。二人が顔を見合わせ、優美な彫刻が施された木の扉を開くと、女が倒れていた。鮮やかな緑の絹のドレスを纏った女は、自分の身で守るように何かを大切に抱えている。ロバートが助け起こすと、女はどうやら味方と認識したようだった。
「どうか……、この子を助けて……」
 息も絶え絶えに女が言い、真っ白い絹の産着に包まれた赤ん坊を僅かに差し出した。
「アレックス、水を探してきなさい」
 呆然とその女を凝視していたアレックスは、父に命じられると急いで甲板へと向かった。
「私はラグナ王国のアクロス領主、ロバート・グレアムです。一体、何があったのです?」
 女は弱弱しく首を横に振った。アレックスは、きれいな飲み水を持って戻ると、父の傍らに膝をついて心配そうな瞳を女に向けた。ロバートがカップを受け取り女の口元につけてやると、一口だけゆっくりと飲んだ。そして息を吐いた。女の身体はひどく熱く、小刻みに震えていて、それがひどくなってきている。ロバートには見覚えが合った。恐らく産褥熱だろう。彼の最愛の妻セリーナもそうして間もなく息を引き取ったのだ。
 震えはやがて痙攣に変わった。命の終わりの時が近付いている。最愛の妻に先立たれ、その後男手一つで忘れ形見のアレックスを育ててきたロバートは赤ん坊に目を向けた。女の腕の中で先ほどから泣き声どころか身動き一つしない。生まれてまだ数日といったところだろう。
 女は最後の力を振り絞ると、ロバートの腕を掴んだ。
「願わくば……、どうかあなた様の娘に……」
 ロバートはようやくこの船の異様さの理由を悟った。このあたりに政情の不安定な国はあるが、戦乱の兆しはない。とすれば政治がらみか貴族の家督相続の争いか、女が多くを語ろうとしないことからも、そういったきな臭い権力争いに巻き込まれたのだろうか。そうでなければ、この赤ん坊の血縁の者を知らせるはずだ。彼女は我が子を守るために故意に知らせないつもりなのだろう。その方がこの子の身が安全なのだ。自分の名さえ明かさないつもりらしく、ロバートが分かったと頷いてやると女は目を閉じた。
「この子の名は?」
「レティシア、と……。あの方が……」
 そう言うと女は少し微笑んだ。殺されたであろう夫の姿が見えたのかもしれない。大きく一つ呼吸をすると、それきり女は動かなくなった。名も明かさなかった女の亡骸は帆布に包まれ、簡素ではあったが丁寧に海に葬られた。
「お館様、船はどうします?」
 異様な船と赤ん坊が残されていた。
「放っておいても間もなく沈むだろう」
 ロバートがそう言うと、尋ねた船長も同意した。ロバートの腕に抱かれた赤ん坊は目を開けることもなく静かなままだ。ひどく弱っている。柔らかな頬に触れると随分体温が下がっていた。
「アレックス」
 呆然と事の成り行きを見ていた息子を呼ぶと、アレックスの肩を抱いて船室に向かった。赤ん坊の産着を脱がせると、アレックスにもシャツを脱ぐように、と言った。アレックスは訳も分からず従った。
「温めて、それから少しずつこうやって飲ませるんだ」
 アレックスにしっかり赤ん坊を抱かせて寝台に座らせると、二人を毛布ですっぽりと覆った。彼らの船倉には、幸い生きた山羊がいた。山羊の乳をこれもまた積荷の綿に含ませて赤ん坊の小さな唇に押し付けてやる。しばらくは何も起こらなかったが、辛抱強く続けていると、赤ん坊が弱弱しくではあるが山羊の乳を吸い始めた。
 アレックスは、父親譲りの深い茶色の瞳を驚きに見開いて、教えられた通りに夢中で乳を与えた。冷たかった赤ん坊の体は、アレックスの体温で温められ、今では彼よりも温かい。もぞもぞと身動きさえ始める。アレックスが感嘆の眼差しで見ていると、小さな、とても小さな手がアレックスの指を偶然握った。そして目を開いた。死んだ女と同じ、海の色を写し取ったような鮮やかなブルーの瞳が現われると、アレックスはその美しく無垢な瞳を見入った。
「レティシアだ。今日からお前の妹だ」
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