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月 光
第1章 1.東の月
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 露台の手摺に腰を下ろして、鈴を振ったような耳に優しい声で少女が何事か話している。驚くべきことに少女は、自分の横の手摺に止まっているふくろうに話しかけている。

「お前は夜も目が見えるのでしょう?お前の目にはこの世界はどんな風に見えるのかしら?」
 ふくろうを撫でながら少女は熱心に話しかけている。

 野生のふくろうが人に懐く、というのもにわかに信じられない。が、現実に気持ち良さそうに目を細めているそれは、首を傾げてうっとりと少女に撫でられている。そして何よりも信じられないのは、月明かりに照らされた少女の幻想的な美しさだった。

 年のころは14、15歳だろうか。顔がはっきりと見える距離では断じてない。しかし、不思議なことにカイの目には、はっきりと少女の姿が見える。まるで空間から浮き上がっているように。
 ほっそりとして折れそうに細い肢体は、東洋特有の肌の露出のない、裾の長い白絹の寝衣に包まれている。薄い肩には花模様の薄衣をふわりと羽織っている。腰を過ぎるほど長い黒髪は艶やかに波打ち、毛先は緩やかな螺旋を優しく描いている。豊かな黒髪は無造作にたらされ、小さな顔を柔らかく包んでいる。月の光を浴びてぼぅっと光を発しているようだ。
 その小さな顔は、花びらのような愛らしい唇と小さくすっきりと高い鼻梁が完璧な位置に配置されている。薔薇色の頬は優しげな稜線を描き、繊細な柳眉の下には大きなエメラルドの美しい瞳が長い睫毛に彩られ、月光を浴びて輝いていた。それはどんな高価な宝石よりも美しく、存在感を主張している。

 幻想的な離宮の庭で月の光を浴びて佇む姿は、現実感を全く感じさせず、別世界の住人と言われてもすんなりと信じられるだろう。

 月の宮殿に住まう月の姫だ……。

 カイはその少女に思わず見惚れていた。


「翡翠様!もう、こんな時間に庭に出たりして!誰かに姿を見られたらどうするんですか」
 吸い寄せられるように少女から目が離せなくなっていたカイの耳に、これは幻想ではなく現実だと知らせる声が届いた。侍女だろう、少女より幾分年上と見える女は慌てて少女の傍に駆け寄った。

 ふくろうが驚いてばさばさっと飛び立っていく。

 その羽音を聞いたカイは、自分がいかに愚かなことをしているか思い出す。まだ子供のような姫君をこっそり覗き見るなど、信じられない。しかしどうしても立ち去ることが出来ないのだ。

「蘭ったら、そんな大きな声を出さなくたって聞こえるわ」
 翡翠、と呼ばれた少女は名残惜しそうにふくろうの去った方角に目をやった。
「皇帝陛下の宴で大忙しなのに手間をかけさせないで下さいね」
 侍女にしてはいささか不遜な物言いだが、翡翠は頓着することなくくすくす笑っている。

「今夜は急な宴の警護のために離宮の衛兵も皆とられているのですよ。万一、帝国の方にお姿を見られでもしたら……」
 蘭は心配そうに庭の周囲を伺った。カイは息を殺してことさら気配を消す。

「外国のお客様がこんな奥まで迷い込んでいらっしゃるはずがないわ」

 翡翠は自分がそのお客様に見惚れられたことも知らずに、無邪気に答える。
「まもなく玲英様がお部屋にお戻りになられます。今夜も翡翠様は訪れてくれないのかと嘆いておいででしたよ」

「わたくしはもう休んでいるとお姉様には伝えてちょうだい」
「毎晩のように玲英様のお部屋で御話になるのに、ここ数日一体どうなさったんです?珍しくけんかでもなさったんですか?」

 僅かに眉根を寄せ拗ねるようなしぐさに幼さが滲んで、可愛らしい。
「だって……、お姉様ったらこのところずぅっと皇帝陛下のお話ばかりなんですもの。つまらないわ」


 自分の話題が美しい月の姫の口から出て、カイの胸は奇妙に高鳴る。拗ねる様子が愛らしくて、ますます目が放せなくなってしまう。玲英を姉と呼んでいるということはこの国の姫に違いない。

「それは無理もありませんわ。アルカディアの皇帝陛下はそれはそれは素敵な方ですもの。翡翠様だってもう結婚できる御歳なんですから、少しは気になるでしょう?」
 蘭はいたずらっぽく聞きながら、翡翠の髪を優しく撫でた。蘭の母親が翡翠の乳母を勤めたので、乳兄弟として育ち実の妹のように可愛がっている青龍の末の姫。出来ることならば愛し愛されて結婚し幸せになって欲しい、と思う。でも国王は翡翠を決して手放しはしないだろう。その為に宮殿の奥深く、誰の目にも触れさせないのだから。

「わたくしは結婚なんてしないのですもの。興味なんてないわ」
「はいはい。龍王子様が大神官をしていらっしゃる神殿に巫女として仕えるのですものね」

 蘭は小さな子をあやすようにぽんぽんと背中を優しくたたいた。翡翠の少女らしい理想の将来は何度も聞いているので、そこでさっさと話を切り上げることにする。

「さ、もうお休み下さい。翡翠様の様子が気になって宴から無理に抜けてきたからもう戻らなくては」

「今夜は満月でしょう?もう少しここで月の光を浴びていたいの。心配しないで、蘭。大丈夫よ」
 小さな手をそっと胸元に当てて、翡翠は懐にある短剣を衣越しに確かめる。父王からもしものときのために肌身離さず持っているようにと与えられた、装飾の美しい細身の短剣である。

「満月ってどうして分かったんですか?」

「だって、今夜は月の光がとっても優しくて強いんですもの」
 クスリと笑って月を見上げた翡翠のエメラルドの瞳は、月の光を受けて輝いた。

 カイは僅かな違和感を感じて逡巡する。この東大陸の民は黒い髪に黒い瞳。だが翡翠は黒髪ではあるが瞳はエメラルドのような鮮やかな緑色をしている。そしてつい先ほどの侍女の言葉。月の満ち欠けなど一目見れば分かることだ。それに先程のふくろうにもそれらしい言葉を発していなかったか。この翡翠という姫君は目が不自由ということなのだろうか。だから人目に触れないよう、宮殿の奥深くの離宮に隠されているのだろうか。

「じゃあ、少しだけですよ」

「宴の片付けもしなくてはならないのでしょう?わたくしは本当に大丈夫だから蘭は戻って手伝ってあげて」
ですが……」
 確かに今まで、外国からの賓客がこの離宮に迷い込んで来たことなど一度もない。しかし、今夜はなんといっても衛兵が一人もいないのだ。蘭は人手が足りない状況が充分に分かってはいたが、翡翠を一人残すことが躊躇われてしかたがなかった。

「蘭ったら心配性なんだから。あと少しだけしたらきちんと休みます」

 優しい翡翠は、そんな蘭の葛藤を敏感に感じ取って安心させるように、にっこりと微笑んだ。翡翠に、微笑まれて逆らえる人間なんているのだろうか。幼い頃からずっと一緒だったにもかかわらず、蘭もまた心を甘く蕩けさすようなこの笑顔には弱いのだ。

「分かりました。じゃあ行きますけど、本当に少しだけですよ?」
 それでも心配で、蘭はもう一度念を押してから手伝いに戻って行った。


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