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月 光
第1章 2.落花
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「姫が望むのならばどこへでも連れて行って差し上げよう」
 男は翡翠に向かって歩き出した。
「約束です。それ以上こちらに来ないで下さいっ」
 よどみなく近付いてくる男の気配に、翡翠は慄いて男に制止を促したが、その歩みが止まることはなかった。
「お願いです、来ないで――っ!」
 
翡翠の顔から血の気が引き、柳眉が不安げ寄せられた。腰を下ろしていた露台の手摺から急いで回廊の方へと飛び降り、そして懐から短剣を取り出す。震える手で、鞘から白刃を抜き放った。

 
それでも男の歩みは止まらない。翡翠との間を隔てている露台の手摺を片手でつかむと、ひらりと音もなく乗り越える。2人を隔てるものはあと一歩の距離だけになっていた。

 身体の深いところから湧き上がる恐怖に、翡翠は震えた。男が一歩を踏み出し、手を差し伸べてくる気配を察して、咄嗟に短剣を払った。男は難なくそれを避けてさらに距離を縮めようとしてくる。
「いやっ、わたくしに近付かないでっ――!!」
 両足が立っているのも困難なほどがくがくと震えた。無理やり足を交互に動かし後退って、少しでも距離をとろうと足掻く。男の手があとわずかで届きそうな気配を感じた翡翠は、恐怖に混乱して短剣を滅茶苦茶に振り回していた。

(怖い、怖いっ。龍兄様、助けてっ――――――)
 いつも翡翠を守ってくれる大好きな兄を求める悲痛な叫びは、しかし誰かに届くことはなかった。どうして急にこんなことになってしまったのか、翡翠にはいくら考えても分からない。けれどこれ以上この男を傍に来させてはならない。きっと恐ろしいことが起こるだろう。本能が激しい動悸と共に煩いほど危険を訴えているのに、彼女にはなす術がなかった。

きっと今が父の言っていた『もしも』の時なのだろう。父や兄にあれほど家族以外の者に姿を見られてはならないと言われていたのに、約束を破ってしまったから―――。
 だから、これは罰なのだ。自分の生命の終焉で償わなければならないのだ。見知らぬ男に恐ろしい目に合わされるぐらいならば、その方が余程怖くない。それでも最後に一目だけ龍に会いたい、と翡翠の両の瞳から大粒の涙が一粒零れ落ちた。
(お父様、お兄様、お姉様、蘭、ごめんなさい。龍兄様―――ごめんなさい。そして、さようなら―――)
 男に向かって握り締めていた短剣を自分の喉に当て、震えを押さえる為にぐっと握り締めた。

 カイは凍りついた様に動けなくなった。東洋の娘が慎み深いとは聞いていたが、これほど名誉を重んじるとは思っていなかったのだ。
 姫に一筋の傷も負わせてはならない。どうすれば―――。じりじりと焦るカイの目の前で翡翠の手に力が入るのを見た途端、身体は動いていた。
 片手で翡翠の手首を捉え、もう一方の手で翡翠の白い喉を守るために白刃を素早く握り込んだ。短剣は思いのほか手入れされているらしく、握り締めた掌にかっと熱を含んだ痛みが走り、温かい血がつっと滴る。
 カイの手から滴った血液が、翡翠の喉にぽたりと落ちる。その感触に翡翠はびくりと身を竦ませた。それを見逃さず、力を込めれば簡単に折れてしまいそうに細い手首を掴んで短剣を奪い去り、手摺の向こうへ投げ捨て、翡翠の身体を押さえ込んだ。

 両の手首を片手で一まとめにして翡翠の腰の後ろで押さえつける。もう一方の手で肩を掴み、大きな身体で小さな身体を押さえ込むようにして、震える翡翠の背中を露台の手摺に押し付けた。
 捕まえた……。
 そっと安堵の息を吐いたカイは、今までに無い高揚感に包まれる己を感じた。まるで狩りで大きな獲物を仕留めた瞬間に感じる、極めて原始的な感情と似ていたのかもしれない。
 翡翠を、ただ抱き締めてやりたくて近付いた。こうして翡翠の身体に触れた今、カイはもっと別の熱い欲望を覚えた。

「いやっ、放してっ!」
 拘束から逃れようと息を乱れさせて全身で抵抗しても、男はびくともいない。自刃も、男にあっけなく阻止されてしまった。しかも男は自分が傷を負うのも構わず素手で白刃を掴んできた。故意ではないとは言え男は血を流していた。自分に危害を加えようとする男にさえ傷を負わせることなど、翡翠には堪えられない。その優しさが彼女から逃れる道を塞いでしまった。
 さっきまではあんなに楽しかったのに、どうして?翡翠は急に態度を変えた男の真意が分からず、怯えと混乱の度合いは深まるばかりだった。

 それでも何とかして不埒な男の腕のから逃れようと、翡翠は身を捩った。そんな様子をじっと見下ろしていると、普段は意識したことも無いような征服欲と独占欲とが入り混じった強い感情が、カイに強く湧き上がってきた。
 長身のカイが抱き締めると、小さな翡翠の頭はちょうど胸の辺りにすっぽりと収まってしまう、腕に心地よい感触に彼は瞠目する。

 
カイが翡翠を見つめるように、翡翠にも自分を見つめてほしい。涙も笑顔も何もかも自分だけに向けてほしい。自分の手によって花を散らせ、今すぐに自分のものにしてしまいたい。快楽に泣き乱れる様が見たい。恍惚とする表情が見たい―――。
 そしてそんな翡翠を見られるのは、自分ただ一人だけだ―――。他の誰に見せるつもりも渡すつもりも、ない。永遠に。
 
翡翠が欲しい……。カイは腹の底から突き上げてくるような欲望を強く感じ―――、それに逆らわなかった。
 
 自分の欲望を満たすためカイは、唇を噛んで俯いている翡翠の可愛らしい耳元に唇を寄せ、優しく甘く囁いた。
「姫の御名を賜りたい」
 それはこの東大陸の大半の国での、妻問いの言葉だった。相手が真名を教えてくれれば婚約が成立する。名は己を縛るもの。それを教えることは相手に呪縛される、という古来の考えに基づく、古式ゆかしい慎ましやかな慣習だ。
 
翡翠はびくりと震えて首を横に振った。
「姫、どうか御名を……」
ことさら優しくもう一度囁いたが、ぎゅっと目を瞑った翡翠は首を横に振り続けた。

 無理も無いだろう。先程出会ったばかりの、帝国の従者らしき男から突然結婚を申し込まれたのだから。
 一体自分は今、何を言ったのか。その意味をカイは反芻した。しかしそれも、己の言葉の意味のままの意思を確認しただけ、にすぎなかった。
 出会ってわずかな時をすごしただけなのに、翡翠を自分だけのものにしたい、という強い思いが揺らぐことはなかったのだった。

「答えて下さらないのならばずっとこのままですよ?」
 優しく囁きながら、翡翠のたおやかな肢体に自分の体を強く押し付けた。それは弱者に己の強さを見せ付ける野生の行為のようだった。
 翡翠は可哀相なほど震え、美しいエメラルドの瞳には今にも零れ落ちそうに涙が盛り上っていた。


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