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月 光
第1章 3.皇帝の恋
<1>

 遠くで鳥達の鳴き声が聞こえる。もう起きなくては……。
翡翠はかすかに覚醒しながら、自分の肢体が温かいものに包まれてひどく心地良いことを感じる。耳が触れているところからは、とくん、とくんと規則正しい鼓動が伝わってくる。今まで感じたこともないような安らぎを感じ、翡翠は幸せの吐息をもらした。すると、誰かが優しく髪を撫で始めたかと思うと、額や頬に優しい接吻が落ちてくる。

 自分が頬を預けている、枕よりも随分固くて、でもずっと温かい何か―――。あまりにも心地よくて翡翠はそっと頬を擦り寄せる。それが自分に酷い仕打ちをした男の胸とは知らずに……。
 ゆっくりと進む覚醒の中で、翡翠の心は2年前へと遡ってゆく。
(朝まで一緒にいて下さったの、龍兄様?)
「龍兄様……?」
 はっきりとした目覚めは訪れていないが、声は出せるようだ。翡翠はそっと最愛の兄を呼ばわった。

「違うよ、翡翠。兄君ではなくあなたの夫だよ」
 くすりと笑った気配と、こめかみに触れる口付けは同時だった。
「え……?」
 聞きなれない男の声があまりにも近くから聞こえたため、翡翠の体は敏感に反応した。本人の意思に関係なく、がばっと上半身が跳ね起きた。
「あ・・・っ!」
 下腹部に走る鋭い痛みに、思わず蹲る。
「そんなに急に動いてはいけない。痛むか?可哀相に……」
 男の逞しい腕が翡翠の両脇に差し込まれ、身を起こし寝台の上に座った男の膝の上に抱き上げられる。男は可愛くてたまらないとばかりに、子供をあやす様に背中を撫で頬を擦り合わせてくる。柔らかい翡翠の頬にちくちくとして心地悪い感触が走る。
「ちくちくするわ……」
 未だ状況がつかめない翡翠がポツリともらすと、男はくすくすとうれしそうに笑った。どうやら姫君は寝起きが悪いようだ。
「すまない。これからは髭を剃ってからにするとしよう」
 この声……。聞き覚えがある。一体どこで?
 男の声は低いが優しい響きを持っていた。翡翠はぼんやりとする自分を叱咤して記憶の糸を必死に手繰り寄せた。

 そうだ、昨夜庭にお客様が迷い込んで。
 そして―――。
 それから、それから―――。

「いやっ、わたくしに触れないでっ。放して、あっちへ行って」
 翡翠の体が震えだした。両手で男の胸を押しやり、逃れようともがく。
 ―――思い出した。全て。
 この男に、実態ははっきりとしないが、とんでもなく酷いことをされたのだ。
「こら、いい子だからそんなに暴れないで。体に障るだろう?」
 男は翡翠の抵抗など物ともせず抱き締めてくる。
「大丈夫、もう何もしないから。だからじっとして。ね?」
 髪に口付け優しく宥められても、それどころではない。翡翠はとうとうしゃくりあげた。
「いやっ」

 カイは泣きやめようとしない翡翠の体をしばらく抱き締めて宥めるも、その耳には届かないようだ。そのままそっと横たえて、負担をかけないよう細心の注意を払って覆いかぶさる。身体で押さえ込んだほうが動きがとれないものだ。暴れて動けば体が辛いだけなのだから。 泣きじゃくり自分を拒む翡翠の髪を撫でて、涙を指で拭ってやる。

「どうして?どうしてこんなことをするの?」
 どうあっても放してくれないことを身をもって知っている翡翠は抵抗を諦め、昨夜と同じことを泣きじゃくりながら尋ねた。
「―――あなたに囚われてしまったんだ。私の妃としてずっと傍にいてほしい」
「え……?」 
 翡翠は呆然として目を見張った。
「妃って、あなたはまさか……」
 そんなはずはない。この男は従者ではなかったのか?父に全てを話しさえすれば、昨夜のことなどすぐにも解決されるはずだと思っていた。それなのに―――。
 しかもこの男は『妃』と言ったのだ……。どんな身分の高い貴族でも妻のことを妃と呼ぶものはいない。そう呼ぶのは―――王族だけだ。
 そして、今、この国で王女たる翡翠に結婚を申し込むことの出来る王族など一人しか存在しない。西大陸からの賓客であるアルカディアの皇帝以外には……。

「嫌です。わたくしは結婚などしませんっ」
 翡翠の声は涙が混じり、ほとんど悲鳴のようだった。カイは拒絶を認めないというかのように唇を奪う。激しい口付けに翻弄されるとようやく唇が離れた。
「い・・・や、いやです。それに・・・・わたくし・・・・は違う。・・・・違うんです。あなたには・・・・お父様はお姉様を・・・・・」
 父は玲英が皇帝の妃になることを望んでいるのを知っている。それに姉自身も……。自分は結婚する気もなければ、酷いことをした男の妻になる気も無い。なんとしてもそのことを伝えなければ……。
 だが翡翠の訴えは、カイに再び口付けられて最後までは続かなかった。

「翡翠、あなたはもう私のものだ」
 蕩けそうな笑みを浮かべると、カイは残酷な言葉を紡いだ。
「あなたは私と契ってしまった。だからもう私の妃なのだよ」
 翡翠の頬を撫でながら優しく。
「いやぁ・・・・・っ」
 このときになって翡翠はようやく、昨夜のこの男のしたことが何であったのかをおぼろげに悟る。契りの、具体的なことなど何一つ知らなかった。けれど、それが夫婦にしか許されない行為だということは、言葉の意味としては知っていたのだ。

 いつもなら起きて庭で小鳥達に餌をやっているはずの翡翠がいないのをいぶかしんで、蘭は翡翠の寝室の扉を前に立ち、翡翠様?と呼びかけた。西大陸の皇帝を迎えるなど滅多にないことで、王城全体が盛り立てる必要があったのだ。お陰で昨夜は目が回るほど忙しく、片付けはとうとう朝までかかってしまった。
 そのとき中から翡翠の悲鳴が聞こえ、蘭は慌てて寝室の扉を開け奥にある寝台に駆け寄った。

 寝台の周囲には衣服が散らばっている。昨夜ここで何があったのかを雄弁に物語るように……。愕然としながら寝台の上に目を向ければ、嫌がる翡翠の上に圧し掛かった男が、いた。男の姿を見た蘭は驚愕して目を見開いた。
「蘭、蘭、助けてっ」
 翡翠は男から逃れようと蘭の方へと震える手を差し伸べる。蘭には、男が皇帝であると一目で分かった。宴でちらりと垣間見た皇帝は、金の髪と瞳を持つ、見たこともないほど美しい男だった。こうして間近で見ると美しいだけでなく、恐ろしくなるほどの威厳がひしひしと感じられる。一介の侍女が口をきける相手では到底なかった。
 だが愛しい姫が怯えきって助けを求めるのを見て、どうしてそのままに出来るというのか?なんとか助けなければ―――。

「皇帝陛下、どうか我が姫を御放し下さいませ」
 平伏して懇願する忠実な侍女を一瞥すると、カイは強い口調で命じた。
「私が声をかけるまで、外で控えていなさい」
「ですが陛下……、どうか姫様を」
「二度は言わない。下がりなさい」
 蘭にはどうすることも出来ない。出来なかった―――。翡翠を一心に見つめて唇をかみ締めた蘭は、後ろ髪を強く引かれながらそろそろと動かして出口へ向かった。
 どうしよう?どうすればいい?国王に知らせなければと思うのだが、翡翠のことが心配でこの場から離れられなかった。

 泣きじゃくり拒絶を続ける翡翠の抵抗は、カイの想像以上だった。カイの胸は翡翠の激しい拒絶によって打ち砕かれ、鋭い痛みを伴い始めていた。
 戯れに偽りの恋を演じることなど苦もなかった。女に拒まれるなど初めての経験だし、こんなときはどうすれば良いのか見当もつかない。
 翡翠の唇から拒絶の言葉が漏れるのが我慢できなくて、聡明で愚かな恋を知らない皇帝は翡翠の口を封じる策を講じた。
「翡翠?聞き分けないと私は心配であなたから離れられない。このまま帝国に一緒に連れて帰ってしまおうか。あなたが望んだ海にも連れて行ってあげられるしね」
 エメラルドの瞳がこぼれんばかりに見開かれる。
「い・・・や、いやです。お願い、赦して・・・・っ」
「それが嫌なら私を拒んではいけない。分かるね?」
 翡翠はとうとう沈黙した。時々ひっくとしゃくりあげ、瞳を硬く閉ざして……。
 仕方が無い。これで妥協すべきだろう。これ以上翡翠に怯えられるのは耐えられそうも無い。

 若き皇帝は苦悩する。彼をここまで拒絶する女など存在しなかったし、ここまで執着した女もなた存在しなかったのだ、昨夜までは―――。
 それでも翡翠にはっきりとした執着、というよりもそれは恋着なのだが、彼はそれをはっきりと自覚した。出会ってたったの数時間だというのに……。
 強い執着心をどう説明したものかと思案した皇帝は、それをやっと理解する。これが恋というものなのだろうか、と。思わず狼狽するも、それはすぐに消え去る。恋する相手を手に入れたという喜びに酔いしれて……。

 大人しくなった翡翠に、触れるだけの優しい口付けを与えてからカイは寝台を下りた。押さえつけていた大きな体が離れた途端、翡翠は背を向け拒絶を顕にし、自分を守るように体を丸めた。カイはどうしたものかと心内でため息をつき、上掛けをそっと掛けてやる。彼の想像以上に強い拒絶だった。今は何を言っても無駄なのだろう。
 散らばっていた衣服を素早く身に着け、翡翠の髪にもう一度口付けてから寝室を後にすることにした。すぐにやらなければならない事がある。
 居室の扉を開け外の回廊へ出ると、先程の侍女が平伏してカイが出てくるのを待っていた。
「翡翠を湯浴みさせてやってくれ。それから今日は一日休ませるように」
 言い置いてから、カイは足早に自分の宛がわれた宮へと戻った。


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