HOME>>NOVELS>>TOP>>BACK>>NEXT
月 光
第1章 3.皇帝の恋
<3>

 それは―――恋、なのではないだろうか。ニコラスの脳裏にふとそんな予感が浮かび上がる。

「酷いことを―――。あれは男女のことなど何も知らず、ましてや家族以外の人間と話したことさえないのですよ」
 今まで口を閉ざしていた皇太子が、怒気を滲ませた様子で憮然として口を開いた。青龍とアルカディアでは、その国力は比べものにならない。皇帝の気分を損ねるのは得策ではない。皇太子たる身分の彼は、それでも諾することは出来なかった。
「それは―――、申し訳ないと思っています」
「あれは随分と甘やかして育ててしまった。後宮に入れられたらあれは死んでしまうでしょう。どうかこのままお捨て置きください」
「後宮は私の在位の間は閉じるつもりです。私の妃は翡翠ただ一人です。―――それに翡翠を甘やかすのは私の望みでもあります」
 皇帝の言葉に、皇太子はわずかに戸惑い揺れる。
「ではどうあってもあれを妃にと?」
「ええ、殿下。どうか私の望みを叶えてください。姫を泣かすようなことは決してしません。貴国に利こそあれ悪いことなど何も無いはずです」

 皇太子は真意を確かめるように、じっと皇帝の黄金の瞳を見つめた。帝国の皇帝という地位にいるというのに驕ったところのない彼にすぐに好感を覚えていた。真剣な眼差しで身分が下の自分に懇願してくる男が、嘘をついているようには見えない。
 皇帝ならば後宮に数え切れないほどの女がいるというのに、翡翠以外は妃を迎えないと言うのだ。小国の王である父でさえ9人の妃がいるというのに。
 それに皇帝の正妃と言えば、女にとっては最高の地位と名誉と言えるだろう。翡翠にとってはそれが幸せなことなのかは分からないが、帝国と血縁関係を結ぶということは国に莫大な利益をもたらすだろう。
 
 父王を補佐し、今ではほとんど青龍国の実権を把握している皇太子は、苦い思いを飲み込むと腹を決めた。
「あれは私にとっても可愛い妹です。お恨みしますよ」
 それでももう一言言ってやらねば気がすまなくて、少々意地悪な物言いをする。
「あれの母親は父が最も寵愛した第3王妃だったのですが、もともと体が弱く命と引き換えにして翡翠を残したのです。王妃に生き写しの翡翠を手放すよう父を説得するのは大変でしょうが、あなたがそこまでおっしゃるのなら仕方がない。やってみましょう」

 蘭は、恐る恐る翡翠の寝室の扉を開けて寝台に歩み寄った。泣き声をこらえるように蹲っている翡翠に声を掛けると、泣きじゃくって震える腕が縋りつく。安心させるように両腕で強く翡翠を抱き締めた蘭は、これからどうしたら良いのか混乱していた。
 何の知識もなく、ましてや目が見えないのだ。よほど恐ろしい思いをしたのだろう。抱き締める腕に伝わる翡翠の震えを宥めながら、そっと翡翠の様子をうかがった。
 皇帝の執着の深さを見せつけるように、翡翠の体にはあちこちに唇の跡が残り、白絹の敷布には破瓜の赤い印が鮮明に残されていた。
 
 なんとか翡翠を宥め励まして、蘭は皇帝の言いつけに従った。湯浴みをさせ、新しい寝衣を着せて、清潔な白絹の敷布を敷いた寝台に寝かしつける。
 翡翠は蘭の手を、川に溺れ助けを求めるかのように強く握り締めたまま放さなかった。蘭は静かに手を握り、ずっと翡翠の黒髪を撫で続けた。
 どのくらい時が経ったのか、早朝の気配が消え失せた頃、泣き疲れた翡翠はようやく眠ったようだった。

 一体なぜこんなことになってしまったのだろうか?自分が昨夜、翡翠を一人でここへ残さなければと思うと悔やんでも悔やみきれない。蘭は冷静に考えることが出来るようになると、国王に知らせるためにそっと立ち上がった。
 
 その時、寝室の扉が何の前触れもなく、ばたんっと乱暴に開かれた。驚いて振り返ると国王が憔悴しきった表情に無言のままこちらへ近付いた。蘭は慌てて後ろへ下がる。
「翡翠……」
 愛娘へと震える手を差し伸べた国王は、寝衣からわずかに覗くほっそりした翡翠の首筋に唇の跡を認め、弾かれたように手を引っ込めた。
「ああ、可哀相に……。なんて酷いことを―――!」
 悪い夢などでは、決してない。こんなことが許されるはずはない。
 娘の寝乱れた額髪を払ってやろうとした国王の、皺の刻まれた手が真っ白い額に触れる。そこは燃えるように熱を持っていた。
「翡翠……?熱が!?すぐに侍医をっ―――」

 良い顔をしない皇太子を説得し、カイは帰国の前に翡翠の顔をもう一度見たいという己の要求をかなえ、皇太子と共に再び月の離宮へと訪なった。
 離宮には主たる翡翠と、侍女の蘭のたった二人だけが住まっている。小さな離宮とは言え二人きりとはなんとも寂しいのだが、若い娘が二人となれば、意外と明るい気配に包まれるものだ。
 しかし今日は違う。気配が消え去ったようにひっそり静まり返っている。
 皇太子が先触れのために蘭を呼ぼうと、翡翠の部屋の扉を開ける。その気配に気付いた蘭は、寝室から慌てて隣室の方へと向かった。
 蘭の顔色を見て異変を察知した皇太子は、渋い表情になる。カイはそんな二人の様子に気が急いて、気が付けば皇太子の制止を振り切って寝室に足を踏み入れていた。

 愛しい翡翠は高熱にうなされ苦しげに寝台に横たわっている。傍らには国王が、彫像のように固まって椅子に座り、翡翠の手を握っている。
 慌てて皇帝の後を追った皇太子は、父の様子を見かねて外へと無理矢理連れ出した。

「翡翠、許してくれ。可哀相に―――」
 汗で顔に張り付いた髪を掻き揚げてやり、頬に口付けた。翡翠はカイの欲望を受け止めるには幼すぎたのだ。受け止めきれなかったのだろう。
 カイは今になって自分のしでかしたことを後悔した。
 それなのに―――。
 次に抱く時は充分に自制して優しくしなければ、と苦しんでいる翡翠を目にしても、次に抱くことを考えてしまう。己の矛盾した欲求にカイはわずかに顔を顰めた。
 翡翠を帝国に迎えるには、どんなに急がせても一月近くかかるだろう。そんなにも待てるだろうか?自分にそれほどの強い欲望があったとは信じ難いことだが、事実なのだから仕方が無い。それが恋というものなのだろうか。
 
 カイは自分の気持ちを見つめながら翡翠の髪を梳いていた。ふいに湧き上がる愛しさにもう一度、熱を帯びた額に口付けた。
「・・・・龍兄様・・・・?」
 翡翠の弱々しい声が耳に届くと、カイは内心舌打ちした。
 また兄君か……。皇太子にさりげなく探りを入れて分かったことだが、異母兄弟姉妹は仲が良く、みな一様に末の翡翠を可愛がっているという。そして翡翠が最も慕っているのは2年前神殿へ入ってしまった第2王子だという。
 いつもこんなふうに額に口付けたり髪を撫でたりしていたのだろうか?いくら肉親とは言え、行き過ぎているのではないのか?胸の内で燃え上がった嫉妬の炎をどうにかやりすごしたカイは、せめてもの償いにと高熱に苦しむ翡翠のために望みを叶えてやることにする。
「そうだよ、翡翠。傍にいるから安心してお休み―――」
「龍兄様・・・・もうどこにもいっちゃいや・・・・ずっと・・・・傍にいて・・・・・」
 翡翠は顔を撫でたカイの手に頬を擦り寄せると、幸せそうに微笑んで深い眠りへと落ちていった。
HOME>>NOVELS>>TOP>>BACK>>NEXT


SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送