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月 光
第1章 4.結婚
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「お疲れになったでしょう?お体は大丈夫ですか?」
「大丈夫。ありがとう、ニコラス」
 間もなく青龍の国境を越える地点にある小高い丘の開けた場所。そこに到達した華やかな隊列は静止した。ニコラスは、王女の乗る馬車から翡翠を抱き下ろした。次はいつ母国に帰れるか分からないのだ。充分に別れを告げさせてやりたい。ニコラスは、青龍の王城から護衛の為に使わされた護衛の軍人が居並ぶ前に、翡翠をそっと下ろした。

「翡翠王女、我々はここでお別れです。どうぞお健やかに―――」
 父王が付けた護衛の、軍人らしい太い男の声が翡翠の耳に届く。他国の人間どころか、自分の国である青龍の軍人でさえ彼女にとっては初めて接する人間だった。
「ありがとう。あなた達もどうぞお元気で―――」
 20名程の護衛の軍人たちは、地に響く馬の蹄の音を響かせて去っていった。やがて、その音も遠くなってゆく。国王に厳重に命じられた軍人達は、初めて目にする王女の美貌に驚いたが、忠実に任務を遂行すべく、その王女の姿から目を逸らし、口をきくこともほとんどなかったのだった。

 そんな彼らをしばらく見送っていた翡翠は、馬車に戻ろうと蘭に手を差し出す。その様子を見ていたニコラスは、そっと翡翠の手をとり休息のために用意した簡易天幕へと導いた。
「間もなく国境です。ここが御国青龍での最後の地となりますゆえ、しばらくはゆっくりとお休み下さい」
「そう……ですか。あの、王城のある方角はどちらになるのかしら?」
 こちらです、とニコラスが翡翠の身体をそちらへ向けてやると、翡翠は目を閉じ胸の前で両手を組んで熱心に祈り始めた。

 ニコラスは花嫁を迎える隊列の隊長として、一旦皇帝と共に帝国に戻りると、慌しく準備を整えて再び青龍に赴いたのだった。そして花嫁を帝国へ導くため昨日の昼に青龍の王城を発ったのだ。
 アルカディア帝国の皇帝であるカイが夢中になった姫君。まるで精巧な人形のように美しいが、痛々しいほど素直で―――。
(全く、こんな幼い姫を手篭めにするなんて……)
 主に対して怒りさえ感じるほどに幼かった。それでもこの姫だけがカイを幸せにしてくれるのだろう。自分も心を込めてお仕えしようと、初めての旅に緊張する翡翠にニコラスはあれこれと細やかに心を砕いた。

(龍兄様……)
 翡翠は宮殿の方角に向かって祈りながら、最愛の兄のことを思った。カイに無理矢理奪われた後、翡翠は3日間高熱が下がらず床についた。
 その苦しい意識の中で、翡翠は確かに兄に触れたのだ。
(絶対に龍兄様が来てくれたはずなのに……)
 熱が幾分下がり目覚めた時にすぐに蘭に兄はどこかと聞いたのが、龍王子は来ていない、きっと夢でもみたのだろう、という。神殿に入ってしまったら滅多なことでは出られない。妹の婚儀に際してもそれは例外ではなく、どんなに会いたくても叶うことはなかった。
(夢なんかじゃないわ。あれは確かに龍兄様だった……。傍にいるって言ったのに……)
 翡翠はこみ上げてくる涙をぐっと飲み込んだ。
 
                         ◆ ◆ ◆

「皇帝陛下との婚儀の準備をするように」
 熱も下がり、ようやく普段どおりの生活が出来るようになると、皇太子が訪ねてきた。
「いや、いやです。殿下、お願いです。わたくしをどこへもやらないで―――」
 長椅子に座って話を聞いた翡翠は泣き出して懇願した。皇太子は翡翠の前に跪くと頼りない小さな翡翠の両手を取り、噛んで含めるように言い聞かせた。こんなに嫌がったまま嫁がせては翡翠が哀れだと思ったのだ。なぜならばそれはもう翡翠の意思でどうにかなる訳もなく、翡翠の意思をまるきり無視して決められてしまったのだから。
「皇帝陛下は必ずお前を幸せにして下さると約束して下さった。何も心配することは無いんだよ。陛下の言うことをよく聞いて可愛がって頂きなさい」
「いやです、いやっ、どこへも行きたくありません。お兄様、お願いです」
 翡翠は取り乱して泣きじゃくり、皇太子を称号で呼ぶことも忘れ、子供の頃のようにただ、お兄様、と呼んだ。もしかしたら小さな頃、兄達にお願いをすればいつも叶えてくれた記憶が翡翠にそうさせたのかもしれない。

 皇太子は翡翠を抱き締めてひとしきり泣かせて落ち着かせることにした。
 全く、いやな役目だ、と思う。可愛い妹が嫌がることを言わなければならないのだから。
(お恨みしますよ、皇帝陛下)
 父王は翡翠の婚姻に最期まで強行に反対したが、皇太子をはじめ官達の全ても賛成だったため、とうとう折れざるを得なかった。いや、折れるというよりは押し切られたのだ。

「翡翠、皇族に生まれたからにはそれなりの義務が伴うことはお前も分かるね?」
 皇太子の腕の中でひとしきり泣き続けた翡翠は、しゃくりあげながらこくりと俯いたまま頷いた。姉姫達が国のために異国へ嫁いでいる意味は知っている。いくら父がずっとここにいるよう言ってくれても、自分も姉達と同じ父の娘なのだから、国のために嫁ぐという義務からは逃れてはいけない、とは思うのだ。それでもあの男だけは嫌だった。もう二度と会いたくない。恐ろしさに身が竦んだ。

「お前には父上が政情のことなど一切教えなかったのだが……」
 皇太子は深いため息を吐くと、翡翠にとっては辛い話を続ける。
「遠くない将来、我が国を侵略しようとする国も出て来るだろう。帝国と縁戚続きになるということは、そういう国々に対して強力な抑止力となる。分かるか?」
 翡翠の髪を撫でながら、青龍の将来の懸念を教えた。思えばこうして皇太子が翡翠とゆっくり話すのは久し振りのことだった。子供の頃からもちろん可愛がってはいるが、好奇心旺盛な末姫はいつも質問攻めにするので少々手強かったのである。政務が忙しかったこともあり、自然と苦手なことは弟の龍王子に任せて、翡翠をまるで子猫か何かを可愛がるように時々可愛がっていたに過ぎないのだった。もちろん皇太子は彼なりに妹を愛しているし、翡翠もまた皇太子を兄として愛している。例え長い時間を共に過ごさなくても、肉親の愛情というものは不変のものなのだ。

 この国にそんなことが起こるなんて考えたこともなかった翡翠は、愕然とした。そうならないために姉姫達は近隣諸国へと嫁いでいるのではなかったのか。もしもそんなことが起これば、姉達は一体どうなるのだろう。

 好奇心旺盛な末君は幼い頃、大好きな第2王子にいつもくっついて離れなかった。王子が将来国の中枢となるべく政治の勉強を始めると、彼女も共に学びたいとねだったのだが父が頑なに禁じたのだった。この国に危機が訪れることなど、王城の奥深くの離宮で何ものからも守られていた彼女は想像も出来なかったのだ。

「あと10日ほどで帝国からの迎えが到着するだろう。少しでも心積もりをしておきなさい」
 父や兄、姉達に甘やかされるだけのちっぽけな自分が役に立つのなら、どんなことでも翡翠は我慢しようと思う。
 けれど―――。 それでもあの男だけは嫌だ。恐ろしくてたまらない。
 しかし逃れられないのだ。逃げることなど出来はしない。
 翡翠の心は打ちひしがれた。

「幸せにおなり、翡翠」
 皇太子は翡翠の額に優しい接吻をして送り出した。
 父は終始黙ったまま、最後に強く抱き締めた。

                        ◆ ◆ ◆

「さあ、翡翠様。お召し替えを」
 帝国の首都の手前にある離宮で、蘭は青龍の正装の衣装を取り出した。最初、蘭はこの婚姻を快く思っていなかった。結婚が決まってからずっと翡翠が塞ぎこんでいたから。でも前向きな彼女は、今はそう悪くないかもしれないと思っていた。何しろ皇帝の妃なのだ。可愛い翡翠に幸せになってもらいたい。

 白絹の左右の合わせが深く、踝丈の下衣を薄い帯で着せつける。それだけでも肌はほとんど隠れてしまう。その上に重ねる薄い桜色に染めた絹の上衣には、見事な鳳凰の刺繍が施されている。その上から紅色の帯を締め、真珠で出来た帯飾りをつけると、蘭は次に翡翠の髪に取り掛かった。
 艶やかな髪は額の真ん中で分けられ、耳を隠すように後頭部にまとめる。髪を結ったことの無い翡翠は痛いと嫌がったが、今日だけは我慢するようにと言い含めた。鬢の髪は一房ずつ耳の横にたらされ、上衣と同じ布で飾られた。後頭部でまとめた髪を編んで巻きつけるが、豊かな長い髪は結い上げても余ってしまう。
 仕方なく、蘭は余った髪を背中に流した。背中に流れる東洋では珍しい柔らかい巻き毛を形良くまとめると、何の飾りもいらないほど見栄えが良くなった。うるさくならない程度に真珠の下がる歩揺と、白牡丹の花簪を一つずつ挿す。
 仕上げに化粧を施そうとしたが、翡翠がとうとう臍を曲げてしまったので薄く紅だけをさした。赤ん坊のようにきめ細かい白い顔には、それだけでも充分だった。
 今から帝国の民に品定めのように見られるのだ。最高に美しく装って驚かしてやろう。蘭は内心ほくそえむと翡翠を立たせ、自分の成果を満足気に見やった。
 
 旅が今日で終わるかと思うと、翡翠の心はどんどん重く冷たくなっていった。今日の夕方には宮殿に入り、明日には結婚式が待っていた―――。

 旅の間、ニコラスが色々気使かってくれたこともあり、元来好奇心旺盛な翡翠は初めての異国の地を少しだけ楽しむ余裕さえあった。最も楽しみだった海は、残念なことに翡翠が眠っている間に通り過ぎてしまったのだが。
 最初は帝国の人間であるニコラスにも警戒心を解けないでいたのだが、日をすごすうちすっかり仲良くなってしまった。青龍の護衛の軍人達は最後に別れの言葉を発しただけで、それ以外は一言も言葉を交わすことさえなかったのだが、彼は違っていた。
 ニコラスは、翡翠が知らない土地のことを面白おかしく話して聞かせたり、食事の世話や馬車の乗り降りなど、蘭の出番がなくなるほどかいがいしく親身にしてくれた。
 彼も同じ軍人だと言うのだが、国が違うとこんなにも違うものなのか、と翡翠は目を丸くして驚きながらも、このニコラスという青年に好意を覚えたのだった。
 そして時には陛下には内緒ですよ、とこっそり馬にも乗せてくれた。いたずらな子供の部分を持ち合わせているらしいニコラスに翡翠はすっかり心を許した。

 ぼんやりと旅のことを思い起こしていた翡翠は、このまま馬に乗って逃げ出せないかしら?とちらりと考えた。だめだ、絶対にそんなことは出来ない。父や兄、それにニコラスに迷惑がかかってしまう。翡翠は覚悟を決めなければならないのだ
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