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月 光
第1章 4.結婚
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 6頭立ての馬車から兵が捧げ持つ輿へと、花嫁はその身を移し換えた。輿の周囲は数騎の近衛兵に守られ、後方には多くの従者付き従い、さらにその後方には年若く見目の良い女官が周囲に花を巻きながら何人も続いている。皆、一様に晴れがましい役目にどこか誇らしげだ。 そして民衆が押し合いひしめき合う宮殿へ続く大通りへと、花嫁行列は静々と進んだ。

 ここ3代に渡る皇帝の堅実な政治手腕は、民衆に長い平和をもたらした。そして平和を享受し続けた民衆達は、退屈を覚え始める。
 長らく独身を貫いていた今生のマクシミリアン帝がようやく春を迎える。その出来事に人々は熱狂した。

 輿の中に行儀良く座る皇帝の初めての妃となる異国の少女―――。
 彼女を一目見ようと詰め掛けた人々が、我先へと身を乗り出す。そしてその姿を目にした瞬間、辺りは一瞬だけ静寂に包まれる。彼らの目には、輿に人形が座っているように映ったのだ。
 この世で最も美しいものを集めて作られた人形。本当に生身の人間なのだろうか、と覚えず息を呑む。神秘的な東洋の美しさに彩られた少女に彼らは言葉を失った。しかし、それは本当に一瞬のことで、すぐさま割れんばかりの歓喜の声に取って代わられた。
 そんな静寂と歓声は飽くことなく繰り返され、その中を隊列はゆっくりと進んで行く。

 民衆の歓声で周囲の音など何も聞こえない中を、翡翠はたった一人で身じろぎもせず座っている。こんなに大勢の人間に囲まれるのは生まれて初めてのことで、恐怖を感じないはずがないのに、彼女は静かに座っている。
 なぜなら翡翠には、比べものにならないほどに大きな恐ろしい存在が待っている。そのことを考えないようにするために、彼女は懸命に心の瞳を閉ざしていた。翡翠の周囲にだけ透明な繭が張り巡らされたように、彼女の耳には、周囲の声は何一つ届かないでいる。

 (何も考えてはいけない……。考えてはだめよ――――)
 けれどもどんなに心の瞳を閉ざしても、それが消え去ることはない。彼女の心にそっと忍び寄り、ほんの小さな隙間からこじ開け入り込む。そして翡翠の心は、瞬く間に侵されてしまうのだ。
 民衆の、地の底が湧き立つ様な歓喜の声も、翡翠の耳には何も届かない。ただ、静かに輿に座り運ばれる。
 翡翠の心をこじ開け入り込み、彼女が恐れるただ一人の男の下へと―――。

 壮麗な石造りの巨大な城門をくぐると、重い音を立てて門が閉まる。
 その音がふっと翡翠の耳に届いた。
(ああ、どうしよう……)
 翡翠はその身を震わせた。

 後宮の最奥にある最も豪奢な王妃のための部屋。それが翡翠に与えられた部屋だった。翡翠の侍女が蘭しかいなかったのを覚えていた皇帝手配したのだろう。そこにはマーゴという年かさのふっくらした優しげな女官が待っていた。
「姫様、ようこそいらっしゃいました。私はこれから姫様のお世話をさせていただくマーゴと申します。何なりとお申し付け下さいませ」
 翡翠はありがとう、と小さな声で答える。そして同行を許された唯一の侍女である蘭を、促されるままマーゴの手に委ねた。

 長旅で疲れているだろうからと、早めに夕食と湯浴みを用意してくれたマーゴに翡翠はもう一度礼を言って早々に寝室へ入ることにした。蘭はもうすっかりマーゴと打ち解けたようで、甲斐甲斐しく寝支度を整えている。
「さぁ、翡翠様。明日は早いでしょうからお早くお休みになって下さいね」
 蘭は寝台に横たわった翡翠に、上掛けを掛けその上から軽くぽんぽんとあやす、目の見えない翡翠のためのお休みを言うと、引き止める間もなくさっさと退室してしまう。まるで青龍にいた頃と変わらない、普段のあるがままの侍女がそこにはいた。

 本当は、蘭にだけは言ってしまいたかった。聞いてほしかった。
 怖い、と―――。
 けれど翡翠には分かっていた。幼い頃からずっと一緒だった蘭がこの結婚を喜んでいることを。そして結婚しても自分の主は翡翠だけだと言ってくれた。姉のように慕っている、この年上の侍女は祖国に帰ることも家族に会うことも出来なくなってしまったのだ。翡翠を選んでくれたために……。
 そんな彼女を困らせて良いはずがない。もしも今、蘭が傍にいたならばきっと、結婚など取りやめて青龍に帰りたいと言ってしまうだろう。

(ああ、どうしよう。明日なんて来なければいいのだわ。陽の神様が気まぐれを起こして、明日だけどこかへ行かれてしまえばいいのに―――。)
 蘭には、これ以上心配をかけてはいけない。これは自分だけの問題なのだから。翡翠は小さく嘆息し、孤独な時間と向き合った。
 大きな寝心地の良い寝台と滑らかな感触の絹の寝具にその身を委ねても、安らかな眠りはいつまでたっても訪れなかった。

 翡翠の願いも空しく、陽の神はすぐにやってくる。雲ひとつ無い極上の晴天をともなって――――。
「きっと神々もお美しい妃殿下の誕生を心待ちにしていらっしゃるのでしょう」
 マーゴはいかにも嬉しげに窓の外に広がる青空を見上げながら話しかけた。類稀な美貌で、民衆を魅了してしまった幼い異国の姫の緊張を少しでも軽くしたいと思い、あれこれ話しかける。が、当の姫は薄く微笑んではいるが、その表情は一切の感情を押し殺した、作り物めいたものだった。

 マーゴは純白の豪奢なアルカディアの花嫁衣裳を翡翠に着せ付けながら、自分が長年仕える若き皇帝のことを思って僅かに眉を顰める。
 きっと緊張されているだけだ。今は余計な心配をするよりもやるべきことがある。マーゴは蘭に西側のドレスの着付け方を教えながら、余計な心配を心から追い出そうと勤めた。しかしそれはどうしても抜けない小さな小さなとげのように、ずっと彼女の心の中から消え去ってはくれなかった。

                         ◆ ◆ ◆

 厳粛な空気に満たされた宮殿内の、神殿の祭壇前へと手を引かれて一歩一歩足を運びながら、翡翠は逃げ出したくなる衝動を必死に押さえていた。

 いっそこのまま、神々に捧げる生贄にされてしまいたい、と思うほどの激しい恐怖に翻弄されている。とうとうそのときが来たのだ。身体は逃げることに忠実に従いたがり、気を抜けば歩みが止まってしまいそうだ。
(ああ、逃げ出してしまいたい―――)
 それでも彼女の理性は必死に戦う。王族の一人として義務と責任を負っているのだ。こんなちっぽけな自分が国とそれを望む家族のために役に立つのだから、逃げることは許されない。堪えなければ―――と。

 翡翠は少しでも気を抜くとくじけそうな心にもう一度強く命じて、儚げな微笑を花のかんばせに貼り付けた。

 ―――神官の、長い祝詞が終わった。

 大きな紅玉(西ではルビーと呼ばれる)が黄金の台にあしらわれた指輪を持たされ、促されるまま向かいに立つ男の、はめやすいようにと差し出された指に手探りで指輪をはめる。そして同じように彼女の左手の薬指には、同じ形の翠緑玉(エメラルド)があしらわれた指輪が、男の手によってはめられた。二つの指輪は、代々の皇帝と皇后に伝えられる古いものだったが、そのときの翡翠には知る由もなかった。

(これは私を縛る枷、なのだわ―――)

 顔を覆っている薄いベールが上げられ、頤に手がかかり上向かされる。翡翠は震えて逃げる体を必死に宥めたが、唇に男の熱が触れる瞬間、僅かに顔を逸らせた。男の手に一瞬力が入るのを感じたが、男はそのまま唇の端にそっと口付けただけだった。

 いつの間にか割れんばかりの拍手と歓声に包まれていた。男に手を取られて神殿の前のバルコニーへ出ると、さらに大きな大地を震わすような歓声に飲み込まれる。

「手を振ってあげなさい。民衆達はすっかりあなたに魅了されているのだから」
 カイはようやく妃となった愛しい姫に、やっと声を掛けることを許された。翡翠は感情の色というものがおよそ欠如した薄い微笑を浮かべ、言われたとおり従順に手を振った。その微笑は翡翠をより人形めいたものに見せていたが、バルコニーの下の民衆の熱気は下がるどころかますます加熱するばかりだ。

(緊張しているからだろうか。それとも疲れて?)
 己のために歓喜する民衆をちらりと見やってから、カイはただじっと隣に立つ翡翠だけを見つめる。 一月ぶりに見えた翡翠の、初めて目にする淡い微笑にカイは戸惑いを感じた。それは先程の誓いの口付けを避けられた時にも感じたことだった。しかし、今のそれは彼の心に一点の影を落とし、騒がせた。彼が少しでも触れれば壊れてしまう、まるで繊細なガラス細工のような、そんな微笑だったのだ。

(少し痩せたか……)
 最後に翡翠を見たのは高熱で苦しんでいる姿だったが、記憶の中の姿よりもさらにほっそりと儚く見える。初めての長旅だったのだし、これほどの群衆の前に出るのも初めてなのだから無理も無いだろう。カイは自分が感じた戸惑いと言いようのない不安に、そう思うことで蓋をした。何よりも翡翠が自分の下へ来た、という事実の方が彼の心を満たしていた。

 早く、少しでも早く二人きりになりたかった―――。

 翡翠のピンっと張りつめた緊張を早く解いてやらなければ、今すぐ倒れてしまいそうでカイは気が気ではなかった。

 だが、これから夜が更けるまで祝宴は延々と続き、心にも無く空寒い祝いを述べる貴族達に付き合わねばならないのだ。皇帝としての義務など放りだしてしまいたいほど、大切な女性(ひと)なのに―――。

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