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月 光
第1章 4.結婚
<4>

 カイは翡翠をそっと抱き上げると、長椅子に腰を下ろした。
「心配しなくていい……。あなたの嫌がることは決してしないと約束するから……」
 いつまでも震えて泣き止まない翡翠を自分の胸に優しく押し付けると、カイの真新しい夜着の薄絹が涙に濡れた。しばらくはそのまま、翡翠を優しく揺らして好きに泣かせた。
 
 どれくらいそうしていただろうか。翡翠はまだ小さくしゃくりあげている。華奢な身体は泣いたことと長旅による疲れからか、ぐったりとして体温が僅かに上がっている。
「安心してそのままお休み……」
 カイはそう囁いて、翡翠の背中を幼子を寝かしつけるように優しくあやしながら、眠りへと誘う。翡翠はされるがままじっとしていたが、カイが何もしないと分かり安心したのか、しばらくすると小さな寝息が漏れ出した。

 眠ってしまった翡翠を腕に立ち上がり、奥の寝室の大きな寝台に慎重に横たえさせた。ガウンを脱がせ自分も隣へ滑り込み、そっと翡翠を抱き締めた。花の香りが立ち上る髪にキスを落としてから頬を押し付けて、ため息を一つ。
(しばらくは辛い夜を過ごさなくてはならないな……)
 愛しい翡翠を腕に抱いているというのに―――。欲望が身のうちを焼き尽くすように燃え滾っていたが、それでも彼は満足していた。2人の間を隔てていた海峡も国土ももう存在しない。視線を向ければその姿を見ることが出来るし、手を伸ばせば触れられる。ずっと傍にいられるのだから。

 誰かを恋いうるなどしたことがないカイだった。どうすれば心を手に入れられるのだろう。いくら考えても明確な答えは見えてこない。情けないことだが、今はただ翡翠の望みを叶えてやることぐらいしか思いつかなかった。そしてなんとしても信頼を得なくてはならない。カイの胸裏には欲望と不安と期待と、様々な感情がせめぎあっていた。そして己の胸の内の思いと共に、翡翠をそっと抱き締めた。

 ―――朝の気配。
 それは翡翠にとって小鳥達の可愛らしいさえずりから始まる。目が見えない分を補おうとその耳は敏感に様々な音を拾うのだろう。
「う・・・・ん」
 どんなに疲れていても、翡翠の体は朝の気配を無視することが出来ないようだ。それに今までと違う環境もそうさせたのだろう。背中が温かい何かにすっぽりと包まれ、心地よかった。身体がひどく温かい。僅かに声を漏らして寝返りを打った。
「まだ眠っておいで」
 温かい何かに頬を押し付けると、髪を撫でられ静かな声が耳に届く。
「龍・・・兄様・・・・?」
 翡翠が無意識に呼びかけると、頬をつけている何かから苦笑する気配がする。
「やれやれ。私はよほどあなたの兄上に似ているようだね」
「あっ・・・・・」
 翡翠は一気に目覚めた。そして自分が男の胸に頬を預け、抱き締められていることにうろたえて身じろいだ。
「心配しなくていい……。あなたの嫌がることはしないと誓うよ」
 男は静かに囁いた。翡翠は昨夜、恐怖に打ちのめされ泣いて拒絶してしまったことを思い出し、自分の情けない失態に唇を噛んでうなだれた。 この有様では王の子として責任を果たすどころではないではないか。
「・・・・ごめんなさい・・・・・」
「どうしてあなたが謝る?悪いのは私だ……」
 男の優しく静かな声を聞いていると、不思議と安らぎを覚える。昨夜まであれほど恐ろしかったことが嘘のようだ。それでも怖いという気持ちは完全には消え去らず、翡翠は身を硬くしていた。それにどんな顔をしていいか見当もつかなくて、うつむいたまま言葉を紡いだ。
「あの・・・・、昨夜は取り乱したりしてごめんなさい・・・・・」
「あなたが怯えるのも無理は無い。酷いことをしたのは私だ。・・・・・・私を憎んでいるか?」
 カイの胸に鋭い痛みが走る。けれど愛しい人を得たいのならば目をそむけてはならないのだ。痛みをこらえてそっと翡翠に目をやると、いいえ、と首を横に振っている。
「嫌がるあなたを脅して、攫うように娶ったというのに?」
「政略結婚は王族として生まれた者の義務ですもの、陛下を憎むだなんてそんなこと……。それに姉達が国のために隣国へ嫁いでいるのに、わたくしだけ逃げるわけには参りません。こんなわたくしでも国のために役に立つのですもの……」
 こんなことを愛しい人の口から聞かなければならないのか。カイがどんなに愛しく思っていても、翡翠にとっては義務だとか責任だとか、そんなむなしいものが結婚の理由なのだ。これは月の姫を汚した罰なのだろうか。しかしそう言わせている最たる原因は他でもない自分なのだ。
「それでも私のことは嫌いだろう・・・・・?」
 カイは自嘲的な気持ちで痛みと共に吐き出した。
「・・・・・分かりません・・・・・。わたくしは陛下がどんな方なのか、よく知りもしませんもの」
 だが、素直な翡翠の心は愚かな男を完全に見放してはいなかった。
「あなたには不本意なことだが……、私たちは共に生きていくことになった。私はあなたのことを知りたいと思っているし、私のこともあなたに知って欲しいと思っている。そしてあなたが何を思っているのか、いつも知りたいと思っている。少しずつでいい、お互いを知るために私と話をしてくれるだろうか?」
 はい、と素直な返事にカイは相好を崩した。
 その時、扉の向こうから「お目覚めですか?」と、遠慮がちなマーゴの声がかかる。ああ、と答えながらカイが身を起こすと翡翠も慌てて身を起こした。
「長旅で疲れているだろう?今日は休んでおいで」
「あの、平気です」
 カイは慎重に翡翠の様子を伺った。額に手を当てるが熱もない様だし、特に気分が悪いということもないようだ。
「本当に大丈夫か?」
 はい、と答えた翡翠の額に素早くキスを落とすと、頬がばら色にぱっと染まる。
「ではここで待っておいで」
 カイは微笑むと寝室を出ると、マーゴに翡翠の着替えを申しつけた。

 マーゴと蘭にドレスを着せ掛けられ、髪を梳かされている翡翠は心が軽くなったのを感じた。皇帝が何もせず優しく接してくれたことが安心感をもたらしていた。皇帝と初めて会った夜のことを思い起こしていた。最初に話していたときはとても楽しかったのだ。あんなふうにこれからたくさん話をすれば良いのだろうか。だとしたらもう怖くない、と思えるのだった。
「御髪はいかがいたしましょうか?」
 マーゴが問いかけると、蘭がすぐに言い添えてくれた。
「翡翠様は御髪が長いので、結い上げるのは苦手なのです」
「それでしたら下ろしたままに致しましょうね」
 準備が出来ると隣の部屋にしつらえてある朝食の席へと導かれる。

「よく似合う」
 カイは翡翠の姿を目にして内心驚く。西洋のドレスを着ても違和感が全く感じられない。普通はとってつけたような違和感を感じるものなのだ。エメラルドの瞳のせいだろうか。しかし、なぜこの姫だけが黒い瞳ではないのだろう。恐らく母親から譲り受けたのだろうが、それを聞くのもはばかられる。翡翠を命と引き換えに生んだのならば、母親のことを思い出させるのは辛い事かもしれない。カイは目を細めて愛しい姫をただ黙って見つめていた。
 象牙色の優しい色目のドレスは、翡翠の清廉な美しさを引き立てている。ただそれだけが翡翠の身に纏っている全てだというのに、それ以上飾り立てる必要が感じられない。豊かな、艶やかに波打つ黒髪とエメラルドの瞳が何よりも美しく翡翠を彩っていた。

「・・・・殿下、妃殿下」
 翡翠は慌ててマーゴへと顔を向けた。
「ごめんなさい、マーゴ。なあに?」
「お茶のおかわりはいかがでございますか?」
 朝食を終え、皇帝と二人長椅子に移って食後のお茶を飲んでいた。妃殿下、という称号で呼ばれることに慣れない翡翠は、自分が呼ばれていることに中々反応出来ないでいる。そんな様子を静かに見ていたカイは、口を開く。
「ここは公の場ではないのだ。翡翠を号で呼ぶ必要はない」
「ですが、陛下……」
 宮廷の作法には厳格なマーゴは戸惑いがちに口をはさんだ。
「よい。きれいな名があるゆえもったいないだろう?」
「……畏まりました。それでは御名でお呼び致します」
 カイは有無を言わせぬ微笑で、マーゴを黙らせてしまう。翡翠はおろおろと二人のやり取りを聞いていたが、幾分ほっとしていた。やはり慣れ親しんだ名を呼ばれた方がうれしい。マーゴが気分を害していないと良いのだけど、と心配したが、皇帝とこの女官の間には礼儀を重んじながらも、親しげな砕けた空気が漂っている。恐らく長きに渡り仕えているのだろう。マーゴも特に気分を害した様子もなく、長年仕える主のわがままを微笑みながら受け入れるような、そんな温かな気配が翡翠に伝わった。

 そろそろ自分の、昨日過ごした後宮の部屋へ戻ろうと翡翠は辞去を申し出ることにする。
「陛下、もうお部屋へ戻ってもよろしいですか?」
 カイは飲みかけていたお茶のカップを戻すと、そっと翡翠の手を取った。
「あなたの部屋は今日からここだよ」
「でも、ここは陛下のお部屋なのでしょう?」
「そうだ。だからここはあなたの部屋でもあるのだよ」
「あの、でも妃とは後宮に部屋を頂くものでしょう?」
「後宮は閉めたんだ。私の妃は生涯あなた一人だから必要ないだろう?」
 零れんばかりに目を見開いた翡翠はどうして良いのか戸惑い、固まってしまった。とても重要なことを言われたと思うけれど、驚きの方が先に立ってしまい、その本当の意味を深く考えることも出来ない。それでも後宮の主が閉めてしまったと言うのならばここにいるほかないのだろう、と混乱しながらも結論を導き出した。
「では、わたくしはここで一日を過ごせばよろしいのですか?」
「何があるか分からないから、しばらくはこの部屋と庭以外の場所には出ないこと。それさえ守ってくれたら何をしても構わないよ。何か欲しいものがあればすぐに用意させよう。何が欲しい?」
 
 翡翠は唐突に何が欲しいと聞かれ、またしても困惑して何も言えなくなってしまう。そんな翡翠を見ながら、カイは思案顔になる。
「そうだな……。もう少し衣装を作らせた方が良いな」
 そうつぶやいたかと思うと、マーゴに命じかけた皇帝を翡翠は慌てて制止した。寝室の隣の大きな衣裳部屋には、翡翠が袖を通すのに何ヶ月もかかりそうなほどのドレスや宝石があると、蘭が昨夜驚いていたことを思い出す。
「あの、陛下、それはもうたくさん頂きましたから必要ありませんわ」
「では宝石にしようか」
「それもたくさん頂きましたもの。本当にこれ以上は……。わたくしのために国庫の無駄遣いはいけませんわ」
 翡翠は困ってしまった。自分を飾ることには昔から関心がなかったし、結婚式には莫大な費用がかかっているだろう。民達が納める税を自分の為にこれ以上使って欲しくなかった。

「私はこれでもあなたに贅沢をさせるぐらいの甲斐性はあるつもりなんだが……」
 カイは、意外に堅実なことを言う翡翠を熱っぽい目で面白そうに見つめた。謙虚で良い皇后になるかもしれない、と思いながら。
 
 このままでは皇帝の厚意を無にしてしまう。自国でも離宮から出たことはなかった翡翠だから、特に不自由も感じないが、本当は欲しいものが一つだけある。
 笑われてしまうかもしれない。それでもこの人ならちゃんと受け止めてくれるような気がして、翡翠は決心する。王太子から自国の真実を知らされてから、ずっと心に決めていたことを初めて誰かに口にした。
「あの、帝国の歴史書を……。出来ましたら点字の本が読みたいのですけれど」
 何を欲しがるかと思えば、カイの考えの範疇を大きく脱したものに少し驚いたが、それはおくびにも出さなかった。
「分かった。すぐに用意させよう」
 カイは執務に向かうため立ち上がり、拒絶される前に素早く翡翠の額にキスを落とした。翡翠は頬を薔薇色に染めて恨めしげな顔をしたが、それでも行ってらっしゃいませ、とカイを送り出したのだった。

 カイは朝議の席へと着くと、すぐに間近に控えた文官に帝国の史書の点字翻訳を言い付けた。それは直ちに実行され、史書の初巻は昼には翡翠の手へと届けられることになる。
 ドレイクは、ほう、と内心感心した。それが昨日妃となった異国の姫のためであることは一目瞭然だった。傾国の美姫であっては困ると、いささか厳しい目でこれから判断を下そうと思っていたのだが、どうやら取り越し苦労のようだ。深窓の姫君が好き好んでつまらない史書など読むはずがない。きっと自分が嫁いだ国を知りたいと思ったのだろう。
「妃殿下が御所望されたのですか」
 幼げなばかりの印象の姫を思い描いて、ドレイクは主に問いかける。
「ああ。私も正直驚いたよ。何が欲しいかと尋ねたのに、そんなものをねだられるとは思ってもいなかったからね」
 カイは見ているものが見惚れてしまう優しい微笑を浮かべた。翡翠が自分の国のことを知りたいと思っていくれている、ただそれだけのことが彼の心を例えようもなく温める。自分を散々心配させた皇帝の幸せそうな顔を見たドレイクは、少々意地悪な気持ちになる。
「感心しますな。陛下が妃殿下のお年の頃と言えば、歴史の時間などすぐにお姿が消えたものでしたが……」
「そうだったか?」
 ドレイクの嫌味などどこ吹く風の様子で、カイは涼しい顔だ。カイの皇太子時代、歴史を教えていたのはドレイクだったのだ。
「陛下も妃殿下ともう一度史書を読み直されるのがよろしいでしょう」
「ふむ……。それも中々良いかもしれぬな」
 さも名案とばかりに、二人で仲良く本でも読んでいる姿を思い描いたのだろう、皇帝の微笑はいっそう深くなった。
 ドレイクはやれやれと思いながら、長年の重荷を肩から下ろしたような安堵を覚えた。
 
 その日の朝議は、皇帝がひどく上機嫌であるのが廷臣の間にも伝わり、いつになく和やかな雰囲気の中で滞りなく進行した。
 しかし、結婚した皇帝の上機嫌を快く思わないものもまた、その席にいたのだった。東の、何の利益ももたらさない小国の、しかも盲目の娘が皇帝の寵愛を受けることが許せない。野心家のギエム公爵は内心舌打ちをした。皇帝の妃には自分の娘こそふさわしい。彼からすれば皇帝も娘のフレイアを憎からず思っているはずなのだ。小賢しい東の小娘をどうにかしなければ……。

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