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月 光
第2章 1.新しい生活
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 ―――長らく独身を貫いていた皇帝が結婚した。
 平和を貪り退屈を覚え始めていた帝国の人々の、歓喜と熱狂を孕んだ盛大な結婚式から一月経った今も、それは彼らの恰好の話題となっていた。
 曰く、皇帝は妃を溺愛し自分の宮から一歩も外に出さず、異国から娶った月の女神に耽溺しているらしい。それは単なる噂ではなく紛れもない真実だった。―――

 「それでは今回も妃殿下はご欠席なのですか?」
 議長を務めるギエム公爵の非難を含んだ声が、広い議場に響き渡る。彼の派閥に属する貴族達も同意を示すためにしたり顔でうなずいている。
「私の妃のことゆえ私が決める。それに何か問題でもあるのか?」
 皇帝の冷たい視線を受けてギエム公爵は口をつぐんだ。温厚に見える皇帝がその実、氷の刃を秘めていることは知っている。彼の怒りを買うことは賢明ではない。ギエム公爵はそこまで馬鹿ではなかった。
「いいえ、陛下。仰せのままに……」

 カイは、物憂げに前髪をかきあげた。皇帝夫妻の出席が必要な公式行事というものは一月に何度かある。それは晩餐会だったり夜会だったり謁見だったりするのだが、カイはそれらの席に妃を伴うのをことごとく拒み続けていた。
 貴族達は概ねこの結婚に好意的だったが、快く思わないものがいることは自明の理だった。ギエム公爵などはその筆頭だろう。再三にわたり、後宮を開くよう進言してくる。そして公の場で翡翠の体面に泥でも塗るつもりなのだろう、やたらと公式行事の出欠を議題に上げてくる。あわよくば正妃の座から引き摺り下ろそうという魂胆なのだ。
 それぞれの利を主張する貴族達のどす黒い陰謀が渦巻く宮廷の毒気に当てられた翡翠が、どんな目にあうかわかったものではない。素直で純真な、柔らかな翡翠の心は耐えられないだろう。
 カイは翡翠を失う恐怖を感じて僅かに震え、瞼を閉じた。平和の続く帝国内に大きな問題は見当たらず、細々とした内政に関する議題ばかりだ。嫌なことから目をそむけるようにカイは退屈な議題に意識を向けた。

 この一月の間、カイは翡翠に部屋から出ないように言い含めていた。自分に幼い頃から仕えるただ一人の女官であるマーゴと、翡翠の侍女の蘭にもきつく言い渡し、宮を守る近衛兵も厳選した。長旅の疲れも心配だったし、何より誰にも翡翠を見せたくなかった。ただ自分だけが翡翠を独占して、自分の宮で誰の目にも触れないように大切にしまっておきたかった。
 強い独占欲にあきれながら、ギエム公爵にちらりと視線を投げる。彼の娘、フレイアは幼い頃から皇后になるために育てられたようなものだった。美しい娘だがひどく矜持が高く、また欲望に奔放だった。財力のある貴族の娘は貞淑など無縁で、まるで男のように自由を謳歌する。西大陸ではそんな貴婦人が五万といる。
 フレイアは、未来の夫となるはずだったカイに男としての魅力を感じたのだろう。彼女の誘惑を受けて、一度だけ抱いたことがあったがそれきりだった。幾人もの男と浮名を流す彼女と、幾人もの女と浮名を流した自分とどちらが不実なのだろう。しかし自分はもう翡翠以外の誰も欲しくなどない、とカイは確信を持っている。

 翡翠は、自分のことが議会で取り沙汰された事など何も知らされず、皇帝の部屋でずっと過ごしていた。お気に入りの場所で毎日点字の本を読む穏やかな毎日。
 最初の本が届けられた日のことを翡翠は忘れられなかった。

 結婚初夜の翌日、昼食をとろうとしていた翡翠の元へ皇帝から贈り物が届いた。贈り物といってもそれは点字の分厚い本が1冊だったのだが、よい香りのピンクのバラの花束と共に、まるでドレスか何かを送るときのようにリボンをかけられ恭しく届けられたのだった。今朝、皇帝に頼んだ史書の初巻がもう届いたことは、翡翠にとって大変な驚きだった。
 何もすることがなくて退屈で仕方がなかった翡翠は、慌てて昼食を終えると美しく整えられた庭の東屋の長椅子に腰を下ろして本を広げる。新しい世界に好奇心を刺激され、ワクワクしながら指で字をたどる。それはこの帝国の創生神話から始まっていた。

 ―――遥か遠い昔、大地は太陽の神が昼を、月の女神が夜を常に照らし守っていた。人々は自然と共存し、自然の声を聞く力を持っていた。
 太陽の神は、いつも入れ違いで大地を優しく照らす月の女神に密かに恋焦がれていた。二人が顔を合わせるのは、年にたったの一度の日食の日だけ。
 それでも太陽の王は月の女神を愛し続けた。そしてある年の日食の日に、とうとう太陽の神は長年の思いを抑えられず月の女神に求愛した。月の女神もいつしか彼を愛するようになっていた。しかし太陽と月は一緒にいることが許されなかった。
 大地を守る二人の神は人々に願う。年に一度の日食の日にだけ、愛し合うことを許してほしいと……。人々は心を打たれる。自分達の世界を守るため、二人の神は年に一度しか愛し合えないのだ。人々は日食の日になると神殿に花や供物を捧げ、二人の神に感謝を示した。
 愛し合える日が年に一度しかなくても人々に祝福され、二人の神は幸せだった。やがて月の女神は太陽の神の子を身ごもった。太陽と月に祝福と守護を受けて生まれたその子供がやがて帝国の礎を築いた初代皇帝エセルバートであったという。
 当時、大陸は領主が治める小国がひしめき合い、覇権を競い、争いが絶えなかった。エセルバートはその争いを制定し大陸全土を支配して広大な帝国を築いたのである。それ以来皇家には太陽のきらめきのごとき黄金の髪と瞳を持つ皇帝が続いているという―――

(陛下も金の髪に金の瞳なのかしら)
 2巻目の史書を読み終え、本をぱたりと閉じた翡翠は、最初の史書を読んでからずっと抱いている疑問を今日もまた抱かずにおれなかった。
 生まれてすぐに光を失った翡翠には色の概念がない。けれど太陽の日差しの暖かさは目の見える者よりも強く認識している。何もかもを暖める、力強い日差しのような色なのだろう、と思う。そして優しく強い日差しの色を纏った皇帝が治めている国。ここにはどんな人々が暮らしているのだろう。
 自国の民のこともほとんど知らずに育った翡翠だったが、これから暮らすこの国のことは知りたい、と思う。婚姻の際に初めて皇太子に聞かされた自国の危機が心に陰を落としていた。自分が帝国へ嫁いだことで、青龍と、そして近隣諸国へ嫁いだ姉姫の無事はちゃんと保証されたのだろうか。そして、この帝国にはどんな危機もないのだろうか。
 政治的なことはよく分からないけれど、史書を読み進めていけば少しは分かるかもしれない。翡翠はそう思い、史書を読むことをずっと心に決めていたのだった。

 皇帝は初夜以来、約束を違えることはなかったが、いつでも翡翠がその腕の中から逃げ出せるように柔らかく抱き締めたり、額や髪にキスすることはなし崩しのように行われた。もちろん寝室も一緒である。
 女官らの目もあるし、それらの行為は優しさを持って行われるので、翡翠も不思議と嫌悪を感じなかった。そして翡翠が最初の史書を読み終える頃、見計らったように次巻が、贈り物と共に手元に届けられた。
 皇帝に色々と質問したいことも出来たのだが、執務が忙しいのか、彼が部屋に戻るのはいつも翡翠が眠りに落ちた後だった。そして朝も、翡翠が目覚めた時には皇帝の姿は寝室にはなく、隣室の居間で翡翠が目覚めるのを待っているのが常だった。
 時々、夜中にふと目覚めると決まって逞しい腕が翡翠の肢体を包み込むように抱き締めている。そんな時はどきりと心臓が高鳴るのだが、皇帝の規則正しい鼓動と穏やか寝息を感じている内に、眠ってしまう翡翠だった。

 ほうっと翡翠の唇から吐息が漏れる。皇帝とゆっくり話す時間を持てないでいるのが、妙に寂しく感じられる。マーゴも蘭もとても優しいというのに。
(あんなに陛下のことが怖かったのに……。私、おかしいのかしら)
 翡翠の周囲に集まっていた小鳥のうちの1羽が、慰めるように翡翠の髪を一房咥えて軽く引っ張った。
「ねえ、お前もわたくしがおかしいと思う?」
 小鳥は小首を傾げてから、優しいさえずりを奏で始めた。

 その日、カイは3巻目の史書を自ら手にして午後の早い時間に部屋に戻る。翡翠の姿を求めて居間のテラスの出入り口の窓から東屋に目をやると、翡翠の周りに小鳥達が集まっている。警戒心の強い小鳥が、翡翠の手に止まっている様子が見て取れる。
「不思議だ……。翡翠は鳥と意思でも交わせるのか……」
 翡翠を見つめながら壁に背を預けて腕を組んだカイは、思わず、といったふうに呟いた。
 部屋に一人で控えていた蘭は皇帝の呟きを聞き取り、僅かに逡巡してから意を決して皇帝の前に跪いて頭を垂れた。このまま隠すよりは話してしまった方が良いと判断してのことだ。翡翠はうまく説明出来ないだろう。傍から見ても皇帝の翡翠への寵愛は深く、秘密を知ったからと言ってそれが揺らぐこともなさそうだ。

「陛下に翡翠様のことでお話が……」
「なんだ?申してみよ」
「はい……。実は、翡翠様のお亡くなりになった母君様は青龍の地に古代から続く神子の一族でございました。翡翠様は母君様のお力を受け継いで、動物と意思が交わせたり、未来のことを夢に見たり、風を呼び寄せたり……、そういった力をお持ちなのです」
 カイは興味深げに蘭の話に耳を傾け、先を続けるよう目で促した。
 なるほど、と思う。太古の昔、二つの大陸は陸続きだった。古代から続く神子の一族が青龍に存在するとは知らなかったが、おそらく彼らは西の民が移動して定着したのだろうと、翡翠のエメラルドの瞳に思い至る。そして、翡翠と出会った夜、ふいに風が吹いて木の枝が分たれたことを思い出した。

「国王陛下は、母君様に生き写しの翡翠様を見るのが辛かったのでございましょう。
神子の力までも受け継いだ翡翠様に、その力のことを誰にも知らせてはならぬと幼い頃にきつく言い含められました。翡翠様は幼いながら国王の望まない自分をお厭いになり、お力のことをお忘れになったようでございました」
「しかし国王は王妃に生き写しの翡翠を溺愛していたのではないのか?」
「もちろん愛してはいらしたと思います。ですが王妃様を忘れられなかったのでございましょう。翡翠様を溺愛しながらもお会いになるのはせいぜい月に一度でございました。翡翠様は国王陛下がご自分と会うとき、ひどく辛そうなのを敏感に感じ取られて、ご自分を責めることもございました。龍王子だけがそんな翡翠様のご様子に心を傷められ、常にお傍で慰められておられたのです。小さな離宮から外へ出ることは許されず、翡翠様は龍王子が育てたようなものだったのです。」

 カイは瞠目した。母がなくても翡翠は父王に溺愛されていると思っていたが、とんだ思い違いだ。随分と孤独で寂しい思いをしたのだろう。龍王子を慕う翡翠のいじらしい気持ちが痛いほど伝わり、カイは沈痛な面持ちになっていた。そして翡翠の愛情を一身に受ける龍王子に嫉妬を感じずにはいられなかった。
「なぜ龍王子は神官になって城を出たのだ?」
「理由はわたくしも存じ上げません。ただ国王陛下はひどく反対なさいましたが、皇太子殿下が後押しなさってようでございました。きっとなにかわたくしが知らない余程の理由があったのでしょう」
「翡翠は随分と悲しんだのであろうな……」
 蘭はそのときの翡翠の悲しみを思い出したのか、辛そうに眉根を寄せた。
「それはもう、大変なお悲しみようで……。殿下や姉姫様方も翡翠様を可愛がってはおられましたが、龍王子ほどお気にかける方はおられませんでしたので……。しばらくはどんなにお慰めしても泣き暮らしておいででしたが、自分が巫女になれば龍王子のそばにいられると思いなおされたようでした」

 自分の孤独と翡翠の孤独が、カイの中で合わさって愛しさが募る。翡翠は孤独の中でも素直に育ち、自分は心を閉ざして過ごしていた。そして翡翠の巫女になり最愛の兄と共に生きるというささやかな願いを打ち砕いてしまったのは自分だのだ。それでも翡翠を幸せにするのは自分でありたいという強い思いが湧き上がり、カイは瞼を閉ざしてしばし沈黙する。
 蘭は皇帝の複雑な気持ちに気付き、静かに言い添えた。
「国王陛下がそんなことをお許しになるはずがないと、翡翠様も分かっておられました。本気で巫女になれるとは思っていらっしゃいませんでした。ただ、そう思うことで悲しみから立ち直られたのです」
 カイは察しの良い優秀な侍女が、己を慰めてくれたことに素直に感謝することにした。
「ありがとう。よく話してくれた」
「わたくしこそお聞き頂いてありがとうぞんじます、陛下」
 蘭は皇帝の金色の瞳をまっすぐに見て、心から微笑んだ。翡翠のために話して良かった、と思う。最初は翡翠の不思議な力のことだけ知らせようと思っていたのに、いつの間にか余計なことまでしゃべってしまったが、それが返ってよかったように思える。
 この方ならきっと翡翠を幸せにしてくれる、と思えたのだった。

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