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月 光
第2章 1.新しい生活
<2>

 カイは東屋で鳥と戯れている翡翠の元へとゆっくり歩いて行った。小鳥達が慌てて飛び去り、翡翠がカイに気付いて驚いて立ち上がった拍子に本が膝から落ちる。カイは屈んでそれを拾うと、翡翠の手をそっと取った。
「お戻りなさいませ」
 こんな早い時間に皇帝が戻るのは初めてのことで、翡翠は戸惑いながら言葉を発した。
「ただいま。あなたとゆっくり話す時間もなかったから、今日は逃げ出してきたのだよ」 唇が翡翠の額に羽毛のように優しくそっと触れる。思わずぎゅっと目を瞑る翡翠の様子に微笑が浮かぶ。翡翠の手を引いてカイはゆっくりと歩き出し、庭を横切り室内へと導いた。

 カイは蘭に目配せして、小さなバスケットを持ってこさせると翡翠の膝の上にそっと置いた。
「これは?なんですの?」
「開けてごらん」
 長椅子に並んで座り、お茶とお菓子を楽しんでいた。カイは翡翠に次の史書といつもの小さな贈り物を手渡した。翡翠は書を点字に翻訳してもらうだけで充分だとカイに伝えたのだが、贈り物が止むことはない。私の楽しみを奪わないでくれ、と言われてしまうと何も言えなかったのだ。
 そしてそのささやかな贈り物はいつしか翡翠の楽しみにもなっていた。それは良い香りの花だったり、練り香水だったりと、目の見えない翡翠が楽しめるものばかりだったから。今回はカイが直接届けてくれただけに、いつもより期待が高まってしまう。
 
 籠の中からは生き物の気配がしている。かさこそと手足が籠を引っ掻いているようだ。蓋を慎重に手探りで開け、そっと手を差し伸べると温かく柔らかい毛玉が擦り寄ってきた。ミャア、と甘えた鳴き声がしたかと思うと、ごろごろと喉を鳴らして翡翠の手に頭を押し付けてくる。

 それは子猫、だった。真っ白な毛並みに翡翠と同じエメラルドのつぶらな瞳。翡翠は慎重に両手でそっと子猫を抱き、自分の顔の高さに持ち上げた。二人分のエメラルドの瞳が一瞬見つめ合う。と、子猫は再びミャアと鳴いた。翡翠は思いもかけない贈り物に目を輝かせて頬擦りした。

 カイは満足気にその様子を見守っている。高価なものを欲しがらない翡翠の為に頭を痛めた彼は、密かに蘭に助けを求めたのだ。
 蘭は翡翠が喜びそうなものを一緒にあれこれと考えてくれたが、散々悩んだ末に一番良いものを思いついた。翡翠が小さな頃、離宮に怪我をした猫が迷い込んだことがあった。翡翠は懸命に看病し、とても可愛がったのだが、国王は猫が引っかいて怪我をするからと取り上げてしまったのだ。

 翡翠の胸に抱かれて幸せそうな子猫に、カイは一瞬羨望とも嫉妬ともつかない複雑な視線を向ける。そして横から手を伸ばして子猫の喉をくすぐった。
「名を付けてあげなくては、ね」
「わたくしがこの子を飼ってもよろしいのですか?」
「ああ。但し寝室に入れてはだめだよ。動物は最初の躾が肝心だからね」
 翡翠が子猫に夢中になるであろうことは予想の範疇だ。どんなに喜ばれてもその辺りだけはしっかりと釘を刺す。寝室で二人きりの眠る時間をカイは誰にも、例え子猫にだろうとじゃまされたくなかった。
「あなたと同じ瞳の子猫を探したのだよ。真っ白な毛並みの美人だよ」
「では、この子は女の子ですの?」
「そうだよ。気に入った?」
 翡翠の喜びに輝く顔を見れば、答えは分かりきっていた。はい、と嬉しそうに微笑んだ翡翠をカイは満ち足りた眼差しで見つめた。
 
 女が贈られて喜ぶものなどさっぱり分からない。貴族の娘なら適当に高価なものを贈れば喜ばれるのだろうが、翡翠に至ってはそれは逆効果なのだ。カイは散々頭を悩ませた。そしてそれが気に入ってくれることを息を詰めて窺っている。まるで初めての恋をする青臭い少年のようだ。いつもはそれさえもマーゴから聞くだけだったが、今日は花の綻ぶような翡翠の笑顔を直接見ることが出来たのだ。そして思いがけず蘭がもたらした翡翠の孤独が相まって募る愛しさのまま、そっと抱き締めて翡翠の髪に頬を埋める。
「気に入ってもらえて、良かったよ」
 翡翠はいつもと少し違うカイに戸惑い、抱擁に戸惑ったが、穏やかな優しい時間を壊したくなくてされるがまま、じっとしていた。
 2人の仲睦まじい様子を見て、控えていたマーゴと蘭は微笑んでから静かに退出した。子猫はあたかもずっとそこにいるかのように翡翠の膝の上で戯れていた。

 カイは初夜以来、翡翠が眠ってから寝台に入ることにしていた。もちろんその半分は実際に執務が夜中までかかったのだが……。嫌がることはしないと約束はしたものの、愛しい翡翠を腕に抱いたまま欲望を抑えるのは拷問に等しい。愛しい人が眠ったのを確認し、起こさないように隣に滑り込み、けれど抱き締めることだけはやめられなかったのだった。
 
 しかしその夜は違った。カイは翡翠の寝支度が整うのを待っていた。マーゴに導かれて居間に入った翡翠は待っているカイの気配にまたしても戸惑っていた。
「おいで」
「きゃっ」
 手を引かれたかと思うと、膝の裏を掬われて抱き上げられていた。翡翠は驚いてカイの首筋にしがみついた。くすくすと嬉しそうな笑い声が頭のすぐ上から落ちている。
「大丈夫、落としたりはしないよ」
「あの、陛下、シルヴィの様子を……」
「シルヴィなら大丈夫だ。今夜は蘭が一緒に眠ってくれるから」
 子猫はシルヴィと名付けられた。翡翠と蘭とマーゴの3人で、あれこれと頭を悩ませた末、西の神話に出てくる白い妖精から名前をもらうことにした。カイはそんな3人の楽しそうな様子を静かに見守っていたが、子猫は予想以上に翡翠の心を捉えたようだった。翡翠はずっと子猫を離さず、子猫もまた誰が自分の主人であるか理解しているのか翡翠のそばを離れなかった。このままでは夜もそうなりかねないと危惧したカイは、姑息だと思いながらも蘭に子猫のことをあらかじめ頼んでおいたのだ。翡翠が関わると子猫にすら嫉妬する自分がおかしくて、カイは再びくすりと笑った。
 
 今日の皇帝はいつもと違う。それともいつも彼はこんなふうだっただろうか。初めて長い時間を一緒に過ごした翡翠はずっと戸惑っていたが、不思議と怖いとは思わなかった。多くを話したわけではない。ただ二人で静かに過ごしただけだ。それでもカイはそっと翡翠の髪に触れたり頬を寄せたりと、いつもどこかを触れ合わせる。そのたびに翡翠の胸の鼓動は早まり、きゅっと引き絞るような痛みのような切なさをわずかに感じていたのだが、次第にそのひどく優しい触れ方がとても慕わしくなる。日差しのように温かな温もりが離れていくのが物寂しく思えてしまう。
 
 カイはそのまま寝室に向かい、翡翠をそっと寝台に横たえ、その隣に自身も横たわる。そして、柔らかく抱き寄せた。
「陛下、何かあったのですか?」
「うん?なにもないよ」
 髪を撫でる大きな手を感じている翡翠の耳にカイの静かな声が返ってくる。毎日深夜まで執務に追われていると思っている翡翠は、疲れているのだろうかと、顔を上げてカイの様子を伺う。
「翡翠?まだ眠くはないのか?」
 目を閉じて手触りのよい翡翠の髪の感触を味わっていたカイは、そんな翡翠に気付いて目を開けた。こくりと頷き気遣わしげな顔を向ける翡翠を見て、カイは優しい微笑をたたえると翡翠の体をそっと引き上げて視線を同じくした。
「それでは、何か話をしようか……?」
 エメラルドの瞳が、好奇心を押さえられず輝くのを、愛しげに見つめる。
「陛下の髪と瞳も太陽の光の色なのですか?」
「ああ。そうだよ」
「色はよく分からないけれど、金色だけは分かるの。太陽の日差しのような暖かな色なのでしょう?」
 カイは思わずぎゅっと翡翠を抱き締めた。愛しくて可愛くてそうせずにはいられなかった。この腕に抱き締めて、この愛しい人に、もうどんな孤独も寂しさも感じさせたくなかった。ずっと守ってやりたかった―――。
「陛下?」
 翡翠の驚嘆の声と緊張に早まる鼓動を感じたが、カイは黙ったまま抱き締め、安心させるように背中をあやした。カイがそれ以上なにもしないと分かり翡翠は力を抜いたが、見えないはずの瞳は興味深げにカイの顔を熱心に見つめている。カイの髪と瞳の色は、翡翠の中に住むいたずらっ子な小さな女の子を大いに刺激しているようだ。

「触って確かめてごらん」
 翡翠の手をとって、髪に触れさせる。最初は遠慮がちにそっと触れていたが、次第に大胆にカイの癖のない黄金の髪を、白い小さな手でゆっくりと梳きだした。
「温かい……」
 翡翠より高い体温を持つカイの髪は、身体に沿っている部分に僅かな熱が移っていた。ふふ、と夢見心地で微笑んだ翡翠の頬にカイは自分のそれを寄せる。
「気に入った?」
 はい、と恥ずかしそうに答えた翡翠を蕩けそうな笑みで見つめたまま、心地よい沈黙に身を任せた。翡翠はもっと色々と聞きたいことがあったはずなのに、なぜかカイの瞳と髪の色のことしか思い出せなくなっていた。今はただ心地よくてひどく安らぎを覚えて、このままそれをずっと感じていたくて……。
 やがて翡翠の身体にもカイの体温が移る。その温もりにエメラルドの瞳は瞼に閉ざされていった。
「おやすみ。良い夢を」
(早く、早く私の元へ降りておいで―――)
 願いを込めてその夜だけ、カイは翡翠の唇におやすみのキスをした。

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