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月 光
第2章 1.新しい生活
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 その日以来、翡翠は警戒心を知らずに解いていた。カイも何日かおきに早く戻るようになり、二人で過ごす時間は徐々に増え、たくさん話をする時間を持つようになる。史書を読んで何か聞きたいことが出来るとすぐに聞けるようになり、翡翠は帝国の歴史を砂が水を吸うようにどんどん覚えていったのだった。

 そんな翡翠にカイの思いはもっと深いものへと変化の兆しを見せ始める。愛しい人に今まで出来なかったことをたくさん経験させてやりたい。市井の人々の暮らしや、見たいと言っていた海にも連れて行ってやりたい、とは思うもののそれらが実行に移ることはなかった。翡翠が落ち着くまでは、と自身に言い訳して未だに宮から出すことを渋っている。何より自分以外の者に翡翠の関心が向かうのがカイは嫌だったのだ。
 
 それでも1日中部屋に閉じ込めるのも忍びなくて、ニコラスや乳兄弟のクリストファー・モンタギュー伯爵とその妻キャサリンを時々招くことにしていた。彼らは皇帝の宮に出入りを許された唯一の存在でもある。ニコラスなどは輿入れの旅程ですっかり翡翠と仲良くなっているらしく、毎日のように顔を出す。それにクリスも彼の妻キャサリンも、カイが懸念したとおりあっという間に翡翠と心を通わせた。お陰で彼らは主であるカイが招きもしないのに、好き勝手に翡翠に会いにくるようになってしまった。

 その日も、カイが早い時間に宮に戻りそっと部屋の扉を開けると部屋の中から翡翠の楽しげな声が聞こえてくる。中には案の定、ニコラスが、クリスが、キャサリンがいた。翡翠はシルヴィを膝に抱いて座りキャサリンと楽しげに話している。カイはニコラスとクリスに剣呑な視線を投げながら扉を大きく開け、愛しい妃へと歩み寄った。
「陛下!お帰りなさいませ」
 翡翠が立ち上がろうとしたところでただいま、とカイの唇が頬に触れる。
「お前達、よくも飽きずに毎日来るものだな」
「おや、ご機嫌斜めとみえる」
 クリスはニコラスと顔を見合わせてにやりと笑うと、乳兄弟の気安さでそんなカイをからかった。
「あの、陛下、ごめんなさい。わたくしがお願いしたの」
 カイの不機嫌な気配におろおろとする翡翠を、カイは安心させるように柔らかく抱き寄せる。
「何を頼んだの?」
「言葉が……。西の言葉が不慣れだからキャサリンに教えて頂いていたの」
「キャサリンに教えてもらうのはもちろん構わないよ」
 言葉など自分が教えてやるものを、と思うが翡翠には同姓の友人もいなかったのだろう。キャサリンは気立ての優しい人だし翡翠もすっかりなついている。そう、彼女は別に構わないのだ。問題はいつもくっついてくる近衛隊長と乳兄弟の貴族の青年なのだ。
 カイは内心面白くないものを感じつつも、翡翠が楽しそうにしているのを目にすると、何も言えなくなるのだった。

「翡翠様は、最初は私に一番なついておいでだったのになぁ」
 ニコラスの残念そうな言葉を最後に3人の友人達は暇を告げることにする。長い付き合いの皇帝の、初めて目にする幸せそうな様子についからかいたくなってしまうが、彼らは皇帝の幸せを心の底から願う唯一の友人だった。そして遠い異国からやってきた幸福の姫君もまた、彼らの大切な友人となったのだった。

 異国の穏やかな毎日の中で、翡翠は初めて友人と呼べる存在を得た。子猫だったシルヴィもすっかり体が大きくなっていた。他人と心を通わせる、そのはじめての経験は翡翠にとってこの上もなく楽しかったのだった。

 季節は夏へと向かっていた。初夏の夜も更けた頃、カイは腕に抱いている翡翠の身体がひどく熱いことに気付いて目を覚ました。
「翡翠?」
 苦しげな呼吸を繰り返している翡翠の額に手をやると、そこは燃えるように熱を発している。カイはすぐにマーゴを呼び侍医であるエリザベスを呼び寄せた。
 エリザベスは40台の温和な女医だ。クリスの遠縁で、彼から優秀な腕聞き及んでカイが直々に侍医にと乞うたのだった。翡翠の身体を他の男に、例え医師だろうと見せたくないという子供じみた独占欲もなかったとは言えないが、やはり女医の方が翡翠も安心できるだろうという配慮であった。

「どうだ?」
 沈痛な表情を浮かべてカイは診察を見守っていた。
「ようやくこちらの生活にも慣れて、お気が緩まれたのでしょう。しばらくは解熱の薬と滋養のある食事を摂って安静にすれば、すぐに回復されるでしょう」
 新妻の苦しげな様子に心配を隠さない若き皇帝に、安心させるよう侍医は微笑んだ。マーゴが用意した薬湯を当然のように受け取ると、カイは心配する彼女達に休むように言った。
「陛下、翡翠様の看病はわたくしどもが……」
 マーゴと蘭は驚きに目を丸くして、申し出たがカイは譲らなかった。
「それより、蘭、翡翠の好みそうな青龍の食事を作れるか?」
「それは、材料さえあれば……」
「では夜が明けたら、悪いが作ってくれるか」
「畏まりましてございます」
 細やかな心遣いに、二人の女官は顔を見合わせ微笑んでからそっと退出した。

 蘭は、カイが翡翠の秘密を知っても厭うどころかますます寵愛が深まるのを感じていた。そしてマーゴは、小さな抜けない棘を胸に感じながらも二人を静かに温かく見守っていた。彼女の胸にある心配はただ一つ。それは寝台に二人が契った痕跡が一度も見受けられないことだった。まだ年若く独身の蘭は気付いていないようだが、年齢を重ね宮殿に長く仕えるマーゴはすぐに気付いてしまった。蘭から馴れ初めを聞いたマーゴはずっと心配している。無理やり翡翠を奪ってしまった、それが消えない傷となっているのでは、と。

 カイは苦味の強い薬湯を口に含むと、翡翠の身体を抱き起こして唇を重ねて液体を流し込む。白い喉がこくりと嚥下するのを見届けると、再びその体を横たえた。
「寒い……」
 高熱による寒気が収まらず、翡翠は苦しげな息の下で震えている。カイはこのまま翡翠を失ってしまったら……という馬鹿げた恐怖に慄いた。
(ただの発熱だ。すぐによくなる)
 最悪の結果を考える自分を叱責し、翡翠から夜着を脱がせた。自分も全ての衣服を脱ぎ捨てて、温もりを翡翠へと分け与える。
 初夏の汗ばむほどの気温だというのに、翡翠は寒いと繰り返している。燃えるように熱い小さな体をぎゅっと抱き締め続けた。

 不安を押し込めて一心に翡翠に熱を分け与えていたカイの意識に、夜明け間近の朝の気配が届いた。腕の中の翡翠の苦しげだった呼吸は穏やかなそれに変わり、重ねた肌が感じる熱も少し下がったようだ。
 隣室ではマーゴが寝ずに控えていた。頼んで湯を持ってきてもらうと、カイは自ら汗ばむ翡翠の体を清めるため翡翠を腕に抱き起こした。

 雪のように白くきめ細かい肌と瑞々しい果実のような胸のふくらみがカイの目を捉えて離さない。そっと指で触れると、本能がもっと触れたいと訴える。
(何をしているのだ、私は……)
 花に吸い寄せられる蜜蜂のようにその胸のふくらみに口付けようとして、カイは我に返る。強く瞼を閉じても翡翠の裸身が網膜に焼き付いてしまっている。
 昨夜は心配でそれどころではなかったというのに、少し快方へ向かっているというだけで浅ましい欲望が押さえきれない自分を強く戒める。
 なるべく見ないように翡翠の体を清めてから新しい夜着を着せる。女の服を脱がせた経験なら何度もあるが、着せたことなど初めてのことだ。わずかに苦戦しながらそれを終えると、マーゴが替えのシーツを手に入室を問うていた。

 整えられた寝台に眠る翡翠の額に落ちかかった髪をそっと払いのけてやる。やはり無理をしていたのだろう。気候も食べ物も全て違う異国の地がすんなり馴染むというのは難しい。気丈に振舞っていた翡翠に、すっかり油断していた。これからはもっと気をつけてやらなければ、と思いながらカイが髪を撫でていると、翡翠の瞼がぴくりと動いた。けぶるような睫毛が震えてそっと持ち上がり、戸惑いの色を浮かべたエメラルドの瞳が顔を覗かせる。

「・・・・陛下・・・・・・?わたし・・・・・・」
「昨夜、熱を出したんだよ。気分は?寒くはない?」
 こくりと小さく頷いた。体がだるく、少し頭が痛むけれど我慢できないほどではない。
「良かった……。起きられる?」
 翡翠はもう、カイを兄とは間違えなかった。苦しい意識の中でずっと感じていた優しい手は、紛れもなくカイのものだと分かる。そのカイの手が翡翠の半身を抱き起こし、体が楽なように背中にいくつもクッションが宛がわれた。

「さあ、口を開けて」
 言われるまま小さく口を開けると、口の中に懐かしい味が広がる。寝込んだときにいつも蘭が作ってくれた、乾燥した貝が入った粥だった。国土が海に面していない青龍で、海の幸はとても貴重だ。その中でも大きな貝の貝柱を乾燥させたものはとても高価で、庶民などは一生に一度食べられるかどうかという代物だ。翡翠もそれを口に出来るのは、体調を崩して寝込んだときだけだった。
 食欲などまるでなかったが、慣れ親しんだ故郷の味はとても美味しく感じられる。翡翠はそれをするりと嚥下した。
「これは……?どうして?」
「蘭に頼んで作ってもらったんだよ。美味しい?」
 はい、と返事をしたかと思うとすぐにカイに次を促される。食べさせてもらうなど恥ずかしくてたまらない。
「あの……、自分で食べられます」
「いいから、さあ口を開けて」
 結局、カイが満足するまで食べさせられてしまう。とても恥ずかしかったけれど、こんなふうに甘やかせてもらったのは随分と久し振りだった。
 
 食事を終えると次は苦い薬が待っていた。例え国が違っても解熱作用のある薬草というのは苦いと相場が決まっているようだ。カイが寝台に腰を下ろす気配がし、翡翠の背中を逞しい胸元へとそっともたせかけるように引き寄せられる。そしてカイの右腕が翡翠の体を回りこんで、苦い薬湯に満たされた杯を翡翠の口元へと有無を言わさず宛がった。
 翡翠は息を止めて一息にそれを飲み下した。あまりの苦さに咳き込むと、すかさずカイの大きな手が背中をさすってくれた。
「いい子だ。これはご褒美だよ」
 唇にまた何か押し当てられる。雛鳥が親鳥からえさをもらうように翡翠は反射的に唇と開いた。蕩けてしまうほど甘い、それはボンボンと言われる西のお菓子だった。ワインをチョコレートと砂糖で包み込んであり、小粒の苺ほどの大きさがある。甘いお菓子は瞬く間に薬の苦味を忘れさせてくれる。

「ゆっくりお休み。今日はずっと傍についていよう」
 寝台に翡翠を横たえさせ、羽毛のたっぷりと詰まった上掛を顎の下までしっかりと掛けると、カイの手が翡翠の髪を撫でる。
「もう大丈夫ですわ。わたくしのために政務をお休みになってはいけませんわ」
 こんなときしか翡翠を独り占め出来ないというのに、当の本人はつれない事を言う。しかし翡翠の言うことももっともだ。このことがギエムの耳に入れば、翡翠を貶めようとうるさく囀るだろう。
「本当に大丈夫?心細いだろう?キャサリンを呼ぼうか?」
 病気のときというのは心細くなるものだ。本当はカイがずっと傍にいてやりたい。しかし皇帝というしがらみがそれを許さない。
「いいえ、蘭もマーゴもいますもの」
「分かった。後で様子を見に来るからよく休むんだよ」
 翡翠の額にキスを落としてカイは寝室を出たかと思うと、シルヴィを片腕にひょいと抱き上げて再び戻ってきた。
「今日は特別だ」
 そういうと猫を寝台に下ろす。シルヴィはすぐに翡翠の横へと潜り込んだ。

 結局、その日の昼も夜もカイの手で食事を食べさせられた。自分が小さな子供になってしまったようでひどく恥ずかしかったが、こんなふうに誰かに甘えるのは翡翠を安らがせた、とても―――。
「元気になったら海に連れて行ってやりたいところだが、しばらくは無理だな……。城下なら連れて行ってやれるのだが、行ってみたいか?」
 カイの思わぬ申し出は、翡翠をいたく喜ばせる。人々の暮らしを直に感じられるのだ。
「はい、行ってみたい!」
「じゃあ、約束だ。早く元気におなり」
 頬にカイのそれがそっと擦りつけられた。

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