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月 光
第2章 1.新しい生活
<4>

 季節は盛夏になっていた。心配したカイの言い付けで、翡翠は1週間を寝台の上で過ごし、その後もしばらくは庭に出ることも禁じられる。疲れによるただの発熱だというのに、すっかり重病人のように接するカイに、くすぐったい気持ちを覚えながらもそれがなんだか嬉しくて翡翠は大人しく従った。そんなカイがようやく安堵したのは、翡翠が寝込んでから1月も経ってからだった。

「陛下、城下にはいつ連れて行って下さるの?」
「もう少し涼しくなったら、すぐだよ」
 海から熱をはらんだ乾いた風が直接吹き込む帝都の夏は暑い。内陸部の、どちらかといえば冬の厳しい青龍では考えられない暑さだろう。それでもアルカディアの宮殿の貴人の居室は快適に過ごすことが出来る。日差しを弾く白い石造りの城の内部は化粧漆喰の下に通っている細い管が無数にあり、その管を夏は冷水が冬は温水が流れて、激しい気候から守っている。
 
 その快適な午後の居間で、翡翠は待ちきれなくてカイに尋ねていた。
「この暑さの中、外を歩き回ったりしたら私でもひとたまりもないだろうからね」
 城下に連れて行く約束をしたものの季節が悪すぎた。それでもカイは翡翠のがっかりする顔を見るのが嫌で、翡翠の中のいたずらっ子を揺さぶることにした。
「城下に行く時は、翡翠は男の子になるのだよ」
「え?」
「そのままの姿で城下に出たら、大騒ぎになってしまうだろう?だから男の服を着て男の振りをするのだよ」
 成功だ。片眉をわずかに上げてカイがいたずらっぽく翡翠を見やると、驚きに見開かれたエメラルドの瞳は、興奮を帯びて輝き始めている。
「でもわたくし、殿方のお衣装なんて持っていませんわ」
 輝く瞳がわずかに心配に彩られる。
「陛下が子供の頃、お忍びで城下に行く時に来ていたものが取ってございますよ」
 そばで控えていたマーゴが微笑みながら口をはさむ。忍びで城下に行くなど褒められたものではない。しかし、毎日史書を読み進め、民の暮らしぶりを知りたがっていた翡翠の喜びようを見ると、そんなことはどうでもよくなってしまう。それにある意味城下に行きなれた皇帝が同行するのだから、危険はないだろう。
 マーゴは古い衣装を探しに部屋を出ると、翡翠に合いそうなものをいくつか手にして戻ってきた。庶民の着る物に似せてはあるが、生地自体はとても高価なものだったので傷みもなく、充分着られる。
 
 蘭が用事から部屋へと戻ると、マーゴが翡翠に男物の衣装を当て、皇帝が楽しげに検分している場面に出くわした。。
「翡翠様?これは一体……」
 何事ですか、と聞こうとした蘭に翡翠は待ちきれない、と言ったふうに答える。
「陛下と城下に行く時のお衣装を選んでいるのよ」
 翡翠の様子があまりにも嬉しそうだったので、蘭もすぐに仲間に加わった。

 そうして、その日が来るのを指折り数えて待ちながら過ごすうち、ようやく夏の気配が遠ざかり始めた。
 カイは、秘密裏に連れ出すことにした。このことを知っているのは当人の二人とマーゴと蘭の4人しかいない。しかも城下に行く日にちはカイだけが知っている。自分が一人で出歩いていた時に危険を感じたことはない。全くなかったとはいえなかったが、カイ自身は武術に長けているし、何より危険な宮廷の毒蜘蛛にさえ知られなければ、城下の治安は極めて良好なのだ。

 その日、翡翠が目覚めると、例の男物の衣装が着せられた。前日に何も言わなかったので驚いたが、喜びと期待の前ではそれもすぐに消え去る。長い髪は、蘭がうなじから一つに編んでくれた。全てを隠すように、カイの手がフード付きのマントを頭からすっぽりとかぶせる。
「それでは、行こうか」
「?」
 てっきり城の外へ出るものと思っていた翡翠の手を取ると、カイは庭へと導いた。そして広い庭を囲む高い堅固な石造りの高い塀に沿ってしばらく歩く。
「陛下?お庭から城下へ行くのですか?」
 しーっとカイの指が翡翠の唇に当てられる。
「ここには秘密の抜け道があるんだ」
 部屋からはちょうど大木の幹に重なって死角になっているところで、カイは塀の石積みを手で探る。そのうちの一つの石を引き出した。その中に手を入れて取っ手を引っ張ると、ちょうど人一人が通れるぐらいの空間が、地面にぽっかり穴を開けた。

 爽やかな風が馬上の二人の頬を優しく撫でていく。あれから秘密の地下道をカイに抱えられて小一時間も歩いただろうか。ようやく外に出ると、そこはすでに城の外だった。カイは慣れた様子で知り合いらしい付近の家から馬を1頭借りた。そして翡翠を馬に跨らせると、すぐ後ろに自分も跨り、市中に馬首を向けたのだった。

「怖くはない?」
「はい」
 カイは翡翠が躊躇なく答えたのに眉をよせた。確かに目が見えないのだから高さは怖くはないかもしれないが……。
「翡翠は馬に乗ったことがあるのか?」
 翡翠ははい、と答えかけてから慌てていいえ、と首を横に振る。確かに馬に乗ったことがある。帝国への輿入れの旅程で、ニコラスがこっそり乗せてくれたのだ。
 陛下には絶対に秘密ですよ、と念を押されたのに、喜びに舞い上がってついうっかりと本当のことを答えかけてしまう。
「翡翠、本当のことを言いなさい。怒ったりしないから……」
 カイは答えを促す。例えどんな些細なことでも嘘が二人の間に存在するのが嫌だった。
「本当にお怒りにならない?」
「ああ、約束するよ。誰に乗せてもらった?」
「……ニコラスに……。わたくしが頼んで乗せてもらったの。だからニコラスをお怒りにならないで、陛下」
(あいつめ、翡翠が怪我でもしたらどうしてくれたのだ……)
 カイは晴れ渡った空を見上げてから内心で溜息を吐いた。全く、翡翠に最初に乗馬をさせてやりたかったのに。
 しかし、しゅんとうなだれた翡翠を前にすると自分の希望など些細なことに思えてしまう。そんな自分にわずかに苦笑した。
「大丈夫だよ。心配しなくていい」
 安心させるために、翡翠に回していた片腕にわずかに力を込める。
「乗馬が初めてではないのなら、少し駆けてみようか」
 片手でさばいていた手綱を繰り馬の腹を軽く蹴ると、並足から少し駆けさせる。
「きゃぁ」
 翡翠の手がぎゅっとカイの腕にしがみ付く。頬を撫でる風が強く速く感じられる。驚いて声を上げてしまったけれど、怖くはなかった。カイの温かな腕がしっかりと回されている。生まれてから自分の足で思い切り駆けたこともなかったのだ。一度も感じたことがないこの風を一生忘れることはない。翡翠はそう思った。

 人の多い帝都の中心部を避けて、郊外の小規模な市場に着くと二人は馬を下りる。カイは武官の着るような簡素な衣装を纏い、皇帝の証である金色の瞳と髪を隠すためにつばの広い帽子を目深に被っている。まさか皇帝夫妻がこんなところにいると思うはずもない人々は陽気で人懐こい。
「お兄さん、絞りたてにジュースはいかが?」
「こっちは採れたてのリンゴのパイだよ!」
 カイにしっかりと肩を抱かれて歩いていると、あちこちから威勢のよい客引きの声がかかる。翡翠は驚きに目を丸くして、発する言葉も見つからずカイのうながすまま、ゆっくりと歩いていた。生き生きと暮らす市井の人々の様子は、想像以上活気のあるもので、それを直に肌に触れられた喜びを翡翠はかみしめた。そしてこの国を治めているのはカイなのだ。そっと隣に立つ男を見上げる。
「疲れたか?」
「いいえ」

 いつの間にか太陽は中空に差し掛かっている。カイはここでも慣れた様子で、白い帆布を張ってあるテントの屋台の一つに行くと、壜に詰められたワインとジュースと、焼きたてのパンにチーズや塩漬け肉や野菜をたっぷり挟んだものを2つ買い求めた。
「そろそろ食事にしようか」
 食事と言ってもどこで食べるのだろう。翡翠がそう思っていると、いつの間にか馬を下りた場所に戻っているようだ。どうやらぐるりと市場の中を1周したらしい。木につながれた馬はのんびりと草を食みながら二人を待っている。

「どこへ行くのですか?」
「秘密の場所だよ」
 再び馬上の人となった。カイの秘密、という答えは謎めいていて翡翠をワクワクさせる。森の奥深くに入り、しばらく行くとカイは馬をとめた。深い木立がそこだけぽっかりと口を開けている。
「ここは古代の神殿の遺跡だと言われている。私が一人になりたい時によく来た秘密の場所だ」
 突然現れた広場のような空間には、まぶしい日差しがさんさんと降り注いで、白い石造りの神殿の残骸を輝かせている。辺りにはただ風が木々を揺らす音と鳥の気配と、遠くに聞こえる水の流れる音だけが満ちている。

 適当な木陰で買い求めた食事を取る。素朴な味は、西の食事に慣れ始めた翡翠の口にもとても美味しく感じられた。
「疲れただろう?この奥に泉があるからそこで休もう」
 カイは翡翠を腕に立ち上がると、足場の悪い遺跡を奥へと歩き出した。遠くに聞こえていた水音が徐々に近付いてくる。
 柔らかな草が覆う地面に翡翠をそっと下ろすと座らせ、翡翠の足を覆う滑らかな皮の長靴を脱がし、ズボンを膝の上まで捲り上げる。
「陛下?」
 翡翠の心臓がどきどきと早鐘を打ち出す。カイの手がそっと翡翠の足を泉につけた。
「気持ち良いだろう?」
 翡翠はこくりと頷いてほっと息を吐いた。カイも長靴を脱いで後ろから翡翠の体を抱えるようにして足を泉につける。
 素足をさらして水につけるなど青龍ではとても出来ないだろう。けれど生まれて初めて市中を歩き回って、確かに足が疲れていた。翡翠は自分の足を癒してくれる水をぱしゃぱしゃと足で蹴ると、初めて経験する楽しみを謳歌した。

「陛下は、いつも秘密の抜け道から城下へいらっしゃるの?」
 翡翠は首を回して自分のすぐ後にいるカイに訪ねると、カイはいたずらっぽく微笑む。
「どうしてそう思う?」
「だって、とても慣れていらしたもの」
「最近は忙しくて来ていなかったな。昔はよく城を抜け出してここへ来ていたのだが」
「お城を抜け出して?」
 カイの目は、懐かしむようにどこか遠くへ向けられた。
「ああ。私の祖父は変わった皇帝で知られていてね。庶民の暮らしを知らなければ、庶民の本当の願いなど分からぬ、と言って臣下の反対を押し切ってあの抜け道を作ってね。それはしょっちゅう城下にお忍びで訪れたそうだよ。私が十歳の時に祖父があの秘密の抜け道を教えてくれた」
「陛下のお祖父様……。先々代のエドワード陛下……」
「そうだ。私は祖父がとても好きだった……」
 
 今までこんなことを誰かに話したことなどなかった。
 翡翠の体に回したカイの両腕の上に、小さな手がカイをいたわるようにそっと置かれる。
「寂しい?」
 カイが涙を流しているような気がした。それは他のどんな気持ちも混じっていない、翡翠の心が発した言葉だった。エドワード帝は15年前に逝去していたはずだ。それにカイの両親もすでにない。たった一人、この人は人々の暮らしを守っていたのだ。
「寂しかったのかもしれないな……」
 そう言うと、カイは翡翠を背中からぎゅっと抱き締めて、背後から翡翠の柔らかな頬に自分の頬を寄せた。
「でも今はもう、寂しくはないよ。あなたがそばにいてくれるから……」
 翡翠の言葉は不思議なほどカイの心に届いていた。今までこんなふうにカイを心からいたわってくれた人がいただろうか。マクシミリアン帝としてではなく、ただ一人の人間として。
愛している―――。たまらなく愛しい。
 けれどその言葉を告げるのは翡翠の心が自分と同じだけ欲してくれる時まで待たなければならない。自分の過ちの許しを得る、ただそのために―――。

 静寂の中、何も言わずただ静かに身を寄せ合っていた。
「きゃっ」
 突然、泉につけた足先を何かが突付いた。翡翠が驚いて声を上げると、カイの腕がすぐに泉からその体を掬い上げる。
「どうした?」
「何かが足に……」
 カイが泉を覗き込むと、透き通った水の中に小さな魚の群れが泳いでいるのが見て取れる。翡翠の小さな手は、助けを求めてカイの胸元の衣服をぎゅっと握り締めていた。そこからカイの体中に熱が伝わる。
「ああ、魚だ。翡翠の掌に乗るくらい小さな魚だよ」
「魚……」
 ほっとしてから、翡翠はうろたえる。自分の手がカイに縋りつくようにして衣服を握り締めていた。そしていつの間にかカイにぎゅっと抱き締められていた。心臓がどきどきと痛いくらい脈打ち始める。
「……陛下?」
 いつもなら翡翠が逃げられるようにと柔らかいはずの抱擁が、今は違っている。それにいつまで経っても解かれない。翡翠の胸の鼓動はますます早まる。
「翡翠……」
 カイの右手が翡翠の滑らかな頬を包んだ。翡翠の見えない瞳は、いつもまっすぐにカイを見上げる。指先が翡翠の唇をそっとたどる。

 たまらなかった。あんなふうに助けを求められると自分が求められているのかと錯覚してしまう。済みきった瞳でまっすぐに見つめられ、翡翠の早まる鼓動を感じ、カイの心臓もまた早い鼓動を打っていた。
(唇だけだ。もしも翡翠が拒絶しなかったなら―――)
 ゆっくりとカイの熱が近付く気配に翡翠はどうすることも出来ず、瞼をぎゅっと閉じた。
「だめ……」
 そして唇が触れる瞬間、か細い声が漏れる。しかしそれは拒絶ではなく制止だった。
「どうして?」
 カイは翡翠がわずかに背けた頬に口付ける。
「……怖い……」
「怖がらないで、翡翠。お願いだ……」
 その声があまりに苦しそうだったので、翡翠は思わずカイの方へと顔を向ける。翡翠は魔法をかけられたように動けなくなってしまう。
 再びカイの熱が近付く気配に、翡翠はぎゅっと目をつぶった。カイの唇が震える翡翠の唇にそっと触れる。それはすぐに離れ、頬に移る。そして再び唇へと戻る。繰り返し繰り返し、いつものキスと同じなのだと言い聞かせるように―――。
 
 いつしか翡翠の唇はカイのそれにしっとりと塞がれた。翡翠の胸を突き破りそうなほど鼓動は激しく打っている。そして身体に感じるカイの鼓動もまた同じだった。
「翡翠、唇を開いて……。怖いことはしないから」
 わずかに唇を離してカイが囁く。その声がまだ苦しそうで、翡翠は言うとおりにすることしか出来なくなっていた。
「んっ……!」
 カイの熱い唇よりももっと熱い舌が、するりと入り込んでくる。それが翡翠の、奥で縮こまっている舌を絡め取り、抱き合っている体のように絡みつく。
 自分の舌に擦り合わされるカイの熱い舌を感じて、翡翠はもう何も考えられなくなっていた。ただ、カイの胸元を握りしめ縋りついた。

「ぁ・・・・・・陛下・・・・・」
 角度を変えるためにわずかに離れた唇の合間に翡翠がカイを呼ぶ。
「名を、私の名を呼んでくれ、翡翠」
 青龍で真名を呼べるのは夫婦のみだが、夫が皇帝という高貴な立場では事情も変わる。
「私が即位した時、私の名を持つ一人の人間はこの世からいなくなってしまった」
 誰にも名を呼ばれることがない。人々の前に存在するのはマクシミリアン帝という皇帝だけなのだろう。それはとても寂しいことに思えた。カイの肉親が一人でも生きていたならば、と翡翠はかすむ意識の下で思った。
「カイ様……」
「様はいらない。あなたの前ではただの男でいたい……」
「でも……」
「お願いだ」
 翡翠はカイにお願いと言われると、もう逆らうことなど出来なくなっていた。
「カイ……」
 消え入りそうな声が、けれど確かにカイの名を呼んだ。
「もう一度、呼んでくれ。翡翠……」
 カイの唇が触れそうなほど近くで囁いた。その声に喜びを聞き取った翡翠は、カイの望みどおりもう一度呼んだ。
「カイ」
 翡翠の唇をカイの唇が再び塞ぎ、深く結びつく口付けが続く。

 いけない。もうやめなければ止まらなくなる……。カイは理性を総動員すると、ようやく唇を離す。翡翠はぐったりとして荒い呼吸を繰り返している。
「翡翠、これからは私を名で呼ぶんだ。いいね?約束だ……」
 翡翠の身体を抱き締めて耳元で囁くと、わずかに頷いたようだった。

 その夜から、皇帝夫妻の挨拶のキスが頬から唇に変わったことを知るのは、マーゴと蘭だけだった。

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