HOME>>NOVELS>>TOP>>BACK>>NEXT
月 光
第2章 2.予感
<1>

「陛下、今回ばかりは妃殿下もご出席して頂かねば示しがつきませんよ」
 ドレイクは議会の前に皇帝の執務室を訪ねて、彼と向き合っていた。2週間後には年に一度の日食の祭りがある。いつの頃からか、その前日は近隣諸国の代表が皇帝のご機嫌伺いのために帝国へと集うことが慣例となっていた。
「……分かっている」
 むっつりと不機嫌な様子を隠さない皇帝にドレイクは溜息を吐いた。宰相である彼ですら、王妃を見たのは結婚式の日だけだったのだ。もっとも、ドレイクは皇帝の宮を訪れることの出来る数少ないうちの一人だったが、彼も大人なのだからと、新婚の皇帝の宮を訪れることは敢えてしなかったのだ。

 帝都の民達の間では、いかに皇帝が年若い妃に耽溺しているか、あることないこと噂が絶えない。 それももっともなことだろう、とドレイクは思う。何しろ彼自身も未だに信じ難いのだから。今までちらとも結婚の気配すら感じさせなかった皇帝が突然結婚したと思ったら、新妻は彼の懐深くに隠されてしまっている。このままでは、宮廷の貴族達にも侮られてしまうだろう。
 今日あたりにもギエム公爵が王妃の出欠を議題に持ち出すことを見越して皇帝に釘を刺したのだが、彼もそれを充分わかっているらしく、ある程度決心していたようだ。
(これでやっと私も妃殿下と近しく話せそうだな)
 ニコラスや、モンタギュー伯爵などはすっかり親しくなって毎日のように訪れているらしい。話を聞くにつけ、興味を覚えていたドレイクだった。



「陛下、自分で歩けますわ。降ろして下さいませ」
 翡翠は狼狽して自分を抱き上げた皇帝の耳元に小声で嘆願した。2週間前に、今日の諸外国の客人の謁見を聞かされていた。それから衣装をカイが選び慌しく準備をしたのだが……。
 ついさっきまで緊張で冷たくなっていた指先が、今は恥ずかしさで熱くなっている。
「じっとしておいで。玉座は数段上になっているから足元が危ない」
 皇帝夫妻の訪れを告げる家臣の声が大広間に響き渡る。ざわめいていた人々は一斉に静まると、膝をつき頭を垂れた。恭しく開かれた扉をカイはそのままくぐった。
 人々の息を飲む気配が一瞬のうちに大広間を満たす。それを皇帝は全く気にも止めず妃を腕に抱き上げたまま玉座へと数段の階段をよどみなく上がる。そして、玉座のすぐ横にしつらえられた王妃の椅子へといかにも大切な宝物を扱うように少女を座らせる。
 それから自身の玉座へと座り、王妃の手を取ると何事もなかったかのように言った。
「面を上げよ」

 各国の使節の代表が、順番に皇帝の玉座の前に進み出て口上を述べる。それが延々と続き、ようやく列の最後尾が近付いてき、最後の番になった。
「このたびのご結婚、誠におめでとうございます。国王の急逝によりお祝いが遅れましたこと、お詫び申し上げます」
 それは北大陸の南西の沿岸の国、唯一の貿易の相手であるオーディン公国の宰相フレデリック・シュタインの玲瓏とした声だった。雪と氷に閉ざされる国特有の色素の薄い白い肌に、薄い茶色の髪と瞳の、ぞっとするほど冷たい目の男だった。

 翡翠はその声と、男から感じられる気配にわずかに震えた。なぜだろう、この人はひどく危険な気がする。近付いてはいけない、そんな気がする……。カイの手がぎゅっと翡翠の震える手を握り締めた。それだけのことでも、翡翠にはひどく心強く思えほっとして力を抜いた。カイはその様子を目の端に捉えると安堵して、皇帝としての仮面を被った。
「貴公の国では大変だったな。新しく即位された女王陛下は落ち着かれたのか?」
「はい。陛下には多大なお悔やみを頂き、感謝の言葉もございません。女王も亡き夫たる前国王が残した国を賢明に立て直してございます」
 オーディンの前国王の不慮の死。恐らくこの男は何か知っていることだろう。寒々しい会話を続けながらカイは、翡翠が敏感に何かを感じ取り震える手を握り締めていた。
「帝都では皇帝陛下ご夫妻の仲睦まじさをみなが噂しておりましたが、噂以上のご寵愛ぶりもこうしてお姿を拝見すると納得致しますね。誠に飾り甲斐のある美しい花でいらっしゃる」
 フレデリックの冷たい瞳が翡翠を見据えていた―――。

 謁見が終わると秋の澄んだ空気にくっきりとした夕日が沈みかけていた。本格的に日が暮れれば深夜まで夜会が開かれる。カイははじめての公の場で疲れただろう翡翠を腕に抱き上げると、一番近い執務室で少し休むことにする。
「疲れただろう?」
「陛下……、あの」
 翡翠の言葉はカイの唇に封じられる。
「ここはもう二人きりだ。名を呼ぶ約束だろう?」
 あの城下の口付けから、カイはそう言うのだが翡翠は実のところその約束のことをあまり覚えていない。あの日のことを思い出すと、カイの唇の感触を思い出して何も考えられなくなってしまう。それでも名を呼ぶとカイが嬉しそうにするのが嬉しくて、恥ずかしさを押し込め苦心して名を呼ぶのだが……。今まで馴染んだ呼び方がつい出てしまうと、罰するように口付けられてしまう。そっと触れたかと思うとすぐに離れてしまう、優しい口付けだった。
 
 そこへドアをノックする音がしてドレイクが入ってきた。主夫妻の仲睦まじい様子がいきなり目に飛び込んできた彼は、おやおやというように片眉を上げる。
 翡翠は慌ててカイの腕から逃れようとしたが、カイは笑って自分の腕の中に囲ってしまった。人に見られるなど恥ずかしくていたたまれず、翡翠はカイの腕の中で小さくなってしまう。
「ああ、彼のことなら気にしなくていい。私の父親のようなものだから」
 そう言って続きを促した。名を、しかも敬称を付けずに呼ぶのはどうしても抵抗があるし、恥ずかしくて小さな声になってしまう。それでもカイの身を案じた翡翠は伝えたいことがあった。
「……カイ、フレデリック様には気をつけて。あの方に関わるととても悪いことが起きる気がするの……」
 カイはドレイクと一瞬目を合わせた。
「どうしてそう思う?」
 長椅子に座り、膝の上に抱いていた翡翠の身体を自分の隣に座らせると、怯えの色をわずかに見せる澄み切ったエメラルドの瞳を覗き込んだ。蘭の話では、翡翠は不思議な力のことを忘れてしまったようだが、ひどく怯えたり驚いたりして、その身が危険だと判断すると急にその力が翡翠を助けるように働くことがあると言っていた。
「分からないわ……。でもとても嫌な感じがしたの。本当よ?」
「分かった。充分気をつけるよ。疲れただろう?少し眠るといい」
「大丈夫ですわ」
 翡翠はそう言うと、ドレイクの方へと顔を向ける。それに気付いたドレイクは、微笑みながら翡翠の手を取り口付けた。
「初めてお目にかかります、翡翠様」
「初めまして、ドレイク公爵。でも初めてお会いする気がしませんわ。わたくし、いつも陛下……カイからドレイク様のことをお聞きしていましたから」
 カイの唇が近付く気配に少女は慌てて言い直す。どうやら皇帝は名を呼んでもらいたいらしい。ドレイクはおかしくて少し噴き出しかけて慌ててそれを押さえた。あの皇帝が、自分の年の半分ほどの少女にすっかり甘えている。

 ドレイクはずっと、カイに父親のように思って甘えて欲しいと願っていた。それでも頑なな心は解けなかったというのに、この少女が彼をすっかり変えてしまったのだろうか。皇帝はごく自然にドレイクのことを父親のような、とこの少女に自分のことを説明したのだ。ドレイクの胸に暖かい灯がともる。そして類稀な力を持つこの少女は、彼と彼の主が密かに懸念している人物をぴたりと言い当てた。
 内心ドレイクは驚いていたが、それはおくびにも出さず変わりなく会話を続けた。
「お疲れになったでしょう?」
「あんなに大勢の方の前に出るのは緊張しましたけれど、それほど疲れてはいませんわ」
「今夜は夜が長いでしょうから、しばらくお休み下さい。邪魔者は退散いたしますゆえ、後ほど夜会で……」
 ドレイクは優しく微笑むと退室した。長い回廊を歩きながら、少女が言い当てた男、フレデリック・シュタインのことを考えていた。40に手が届くだろうオーディン公国の宰相であるこの男は、何かと黒い疑惑が付いて回っている。前国王の急逝に関わる黒い噂と、この数年帝国の北東部沿岸に頻繁に出入りしている怪しげな人々。その他にも近隣諸国から聞こえるまことしやかな噂。それらを密かに調べているが、どれもこれもこの男へとつながりそうなのだが、はっきりとした証拠がつかめずにいる。帝国側の諜報活動を取り仕切り、現地へ赴いている皇帝の従兄弟フランシス・グレアムが今夜1年ぶりに戻る。そうすればもう少し何か分かるだろう。
(何事もなければ良いのだが……)
 ドレイクは皇帝夫妻の幸せそうな光景にわずかにさす黒い影を懸念した。

 夜会の為に衣装を改めた皇帝夫妻が会場へ姿を現した。皇帝は深い青色の、皇帝だけが身につけることを許されている色を纏っている。そして王妃はそれに合わせるように淡い水色を纏い、豊かな髪を額で分け耳を半分隠すように古風な形にゆったりと結い、後ろ髪は背中に流れるに任せていた。黒髪に飾られた白い花がよく映えている。その姿は太陽神と、それに寄り添う月の女神さながらだった。
 会場に集っていた諸侯からは羨望の、女からは諦めの溜息が漏れる。皇帝夫妻が席に着くと、それを合図に音楽が奏でられる。踊るもの、歓談を楽しむもの、それぞれが明日の祭りを前に浮き立っていた。

「皇帝陛下、ただいま戻りました」
 家臣がグレアム公爵の到着を告げると、会場の人の波が分かたれた。よどみなく近付く足音が止まると、男の声が、カイと驚くほど似た声が翡翠の耳に飛び込んだ。
「フランシス!」
 皇帝がその声に応えて立ち上がると、男はすぐそばに歩み寄り片膝をついた。カイは構わず男を立ち上がらせると、抱擁し誰にも聞こえないよう小声で言った。
「よく戻った。ありがとう、フランシス」
 危険な任務だったのだろう。カイはたった一人の肉親である従兄弟の帰還を心から喜んだ。しばし皇帝との再会を喜んでから、男は翡翠に向き合った。
「こちらが噂に聞く、月の女神ですね?初めまして、翡翠様」
 フランシスと呼ばれた男は翡翠の手を取ると跪き恭しく口付けた。翡翠はカイに従兄弟がいることは聞いていたが、なぜ彼が国内にいないのかは全く知らされていなかった。その、カイとあまりによく似た声。実際、彼はカイによく似ている。顔立ちも背格好も年もカイより2つ下なだけだ。決定的に違うのは彼の髪がゆるやかに波打っているぐらいだろうか。とにかく翡翠は驚いて目を見開いた。
 くすり、とフランシスが笑う。
「驚かせてしまいましたか?きれいなエメラルドが零れ落ちてしまいそうだ。陛下は私のことを少しも話していらっしゃらないのですか?」
 フランシスがカイに目を向けると、仕方ないだろうと憮然としている。任務が任務だったし、翡翠に余計なことを知らせて心配させたくない。
「翡翠、フランシスは私の父の弟の子でね。この一年外国に行っていたのだがようやく帰国したのだよ」
「初めまして、フランシス様。お声があまりに陛下に似ていらっしゃるから驚いてしまって……。ごめんなさい」
 恥らって頬を染める少女をフランシスは優しい瞳で見つめた。

HOME>>NOVELS>>TOP>>BACK>>NEXT


SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送