HOME>>NOVELS>>TOP>>BACK>>NEXT
月 光
第2章 2.予感
<4>

 自分が掴んでいる少女の手首。もう少し力を込めれば折れてしまいそうに細い。けれどその手は透き通るように白く、どこまでも滑らかだった。
「あなたは飢えて死ぬということが、どういうことか分かりますか……?」
 フレデリックは翡翠の手の甲を親指でそっとなぞるとそう問うた。
「え……?」
 思いもよらない問いに翡翠は瞠目した。先程までの獲物を弄ぶことをなんとも思わない冷酷な男は消え去り、替わりに今、目の前にいる男は深い悲しみのようなものを纏っているように感じる。なぜなのか、その理由を確かめようと翡翠は男の顔を見上げた。
 だが、悲しみを纏った男がいたのはほんの一瞬のことだった。

「さて、あなたの命と引き換えに陛下からどれだけのものを引き出せるかな?」
 彼は、翡翠の答えなど最初から必要としていなかったのだろう。何事もなかったように、まるで何か楽しいことを相談するように囁いた。
「そんなこと……!その前にわたくしは自害致します!」
「安心なさい、冗談ですよ。今はまだ、ね。ここからあなたをさらうのは流石に無理ですから」
 皇帝が最近娶った正妃に夢中だという噂は、彼の興味を強く惹きつけた。誰に対しても決して心を開かぬ皇帝が夢中になった女に会ってみたいと思った。そして使えるかもしれない、とも思った。だから嫉妬に燃える瞳で皇帝とその妃を見つめていたフレイアに睦言を囁いて、翡翠をここへ連れ出させたのだ。娘に甘いギエムは、何の疑いもなくせがまれるまま翡翠をここへ連れて来た。
(薄汚いねずみはどこにでもいるものだな)
 内心でそう独りごちてから、改めて彼の興味を惹いた女を見た。女、と言うにはまだあまりにも幼い風情は、少女といった方が正しいだろう。そのことに少なからず驚いたが、儚い風情にもかかわらず芯は強そうだ。獲物の思わぬ手応えにフレデリックは、満足気な笑みを浮かべた。
「この国の豊かな領土がどうしても欲しいのですよ、妃殿下。しかし賢帝と謳われる陛下が私に領土を与えるはずもありませんしね」
 そう言うと、フレデリックは腕の中の翡翠に歌うように囁いた。
「ならばいっそ、陛下のお命を奪った方が話は早いと思いませんか?」
「やめて……っ!」
 カイの命を奪う……?そんなこと、絶対に許すわけにはいかない。許せるはずもない。カイに知らせなくては、一刻も早く―――。男の拘束から逃れようと身もがくが、男は逆にその動きを利用して翡翠を寝台に押し倒す。
「いやっ、放してっ!誰か、誰か助けて―――」
 体面も何もかも投げ打って助けを求める翡翠の唇を、男の唇がふさごうとした。それに気付いた翡翠は、咄嗟に顔を背けた。その拍子に首筋を覆っていた髪が肩に落ち、男の目に白い項が映る。耳の後ろの柔らかなところにフレデリックは唇を付けると強く吸った。
 おぞましい感触に、全身が総毛立つ戦慄が走る。もはや声を出すことも出来ず、フレイアから、そしてフレデリックから放たれた刃で大きく傷を負った翡翠の心は、悲鳴を上げる。ふっと、意識が霞んでゆく。
「……い…や……、やめて……」
 暗黒の世界しか知らなかった。いつもその暗闇が全てだった。でもいつからだろう。一筋の光が差し込んできたのは。まるで日差しのように温かく翡翠を包み込む、大切な大切なたった一つの光。それを失ったらもう生きてはいられない、と翡翠はこのとき初めて気付いた。

「フレイア殿、ここをお開け下さい!」
 扉を激しく叩く音にフレイアは慌てて寝室に戻ると、男を促した。
「フレデリック様、早く……!」
 男が風のように音もなく部屋を出て行くと、フレイアは寝台の上で朦朧としている翡翠に上掛けを掛けた。
「これは、私から陛下を奪った罰ですわ……」
薄れゆく意識の中で、それでも翡翠はフレイアの声を確かに聞いた。
 フレイアは、踵を返すと扉を細く開け、何事もなかったかのように美しい顔に完璧な笑みを上らせる。
「まあ、ニコラス様。どうなさいましたの?」
「フレイア殿、妃殿下はこちらにおいでなのですか?」
「それが……、急にご気分が悪くなられて、中でお休みになっておりますのよ」
 フレイアはそう言うと扉を大きく開きニコラスを中に招き入れた。

 翡翠の頬に残る涙の跡を、カイはそっと指で辿る。
「一体何があった?翡翠……」
 けれどその問いに答える声はない。翡翠は未だ気を失ったままだが、診察したエリザベスによると大事はないということだった。
 ニコラスに抱かれて戻った翡翠は、カイが断った北からの衣装を身に纏っていた。それは単にフレイアの当てこすりだったのか、暗示だったのかは定かではない。
「ギエムを議会から外す」
「……陛下。お気持ちは分かりますが、翡翠様のお話を聞いてからにしませんと……。それでは他の者が動揺するでしょう」
「…………」
 ドレイクがニコラスを伴ってギエムとフレイア、それにその場にいた全員に事の次第を問い質したのだが、フレイアがフレデリックのことを言うはずもなく、着替えの途中で気分が悪くなったと言う答えしか得られなかった。

 元々、西大陸の者は東大陸を蔑む傾向がある。元はと言えば文明が先に起こったのは東大陸だったのだが、古来からの信仰を大切にして穏やかに暮らす東大陸を、西大陸があっという間に追い抜いてしまったのだった。
 全部が全部そうとは言えないが、ギエムなどはその筆頭だろう。だから、正妃である翡翠を娘に頼まれて自分の部屋へ呼び寄せたことを、悪いことなどとは微塵も思っていない。無論、フレイアがフレデリックのことを告げるはずもなかった。故に当の翡翠が意識を失っている今、何かが起こったと言う根拠さえもないわけで、それではカイの処分は重すぎてしまう。議会からの反発を買うのは避けなくてはならない。
 広大な領土を皇帝一人の力で統べることは到底無理な話で、議会がうまく機能するように配慮しなくてはならないのだ。そこにカイ自身の思いを通すことは許されなかった。結局、一番大切な人を守ることさえままならないのだ。
「……もうよい。下がれ」
 
 翡翠は、暗闇の中一人で凍えていた。寒くて心細くて寂しくて、そしてとても悲しい。右を見ても左を見ても、そこにはただ同じ暗闇があるだけだ。青龍にいた頃なら、間違いなく兄の龍を求めただろう。けれど今は違う。もっと、もっと強くて暖かい光を、温もりを知ってしまったから―――。
 カイの温もりだけを求めて、あてどなく暗闇を彷徨う翡翠にカイの温もりの片鱗が僅かに届く。その僅かな温もりへ必死に手を伸ばして掴もうとすると、冷たい風が翡翠を遮った。全てを凍らせるほど冷たい風は、カイの僅かな温もりを根こそぎ奪っていく。

「いやっ、カイ……っ」
「……翠、翡翠、目を開けて」
 カイの声に意識を呼び覚まされ、翡翠は言われた通りゆっくりと瞼を持ち上げる。夢を見ている間、ずっと涙が流れ続けていたせいで、それは幾分重く感じられる。恐ろしい夢の余韻はまだ強く残っており、声もなく震えて翡翠は涙を流し続けた。
 これは夢の続きなのだろうか。それとも現実?目の見えない翡翠には、目を覚ましたところで永遠に続く暗闇が変わらずにあるだけだ。亡羊としていると、ふいにカイの温もりに包まれた。温かな腕が翡翠を抱き上げて自分の膝の上に座らせ、震えを、涙を止めるように抱き締める。
「ただの夢だよ、翡翠。もう大丈夫だ」
 しぃーっと宥めるように耳元で囁いたカイは、翡翠を抱き締めると背中をあやした。翡翠は震える息を一つ吐くと、これが現実だったことに安堵し、カイに縋りついて子供のようにただ、泣いた。

「ギエムの部屋で何があった?」
「……何も……」
 翡翠を好きなだけ泣かせたカイの胸元の衣服は、涙でぐっしょりと濡れている。翡翠がようやく小さくしゃくりあげるだけになった頃、カイは涙のわけを尋ねた。
「何もなかったのなら、なぜこんなに涙が流れる?」
 カイの手がそっと翡翠の頬に当てられ、上向かせる。翡翠はぎゅっと目を瞑った。あの男がカイの命を奪うと言った。それをカイに知らせなくてはと思うのに、どうしても言い出せなかった。それを言えば、その男に肌を見られ首筋に唇を受けたことも言わなくてはならないだろう。それをカイが知ったら―――?少なくとも青龍では不義密通で離縁されるのは間違いない。
 最早自分には、この温かな人のそばにいることは許されないのだ。

 そして―――フレイアが言った、子供の自分に飽きてしまったらカイはフレイアの元へと行ってしまうのだろうか?離宮で限られた人としか接していなかった翡翠には、もう考えることすら出来なかった。ただカイを失ってしまうことだけが恐ろしくてたまらない。
「翡翠、答えて」
 尋常ではない怯え方に、カイは眉根を寄せる。
「本当に何も……。恐ろしい夢を見たからそれで……」
「だが、ただの夢だっただろう?」
「わたくしには、夢も現実も同じ暗闇だから……。目が覚めてもそれが夢だったかどうかなんて分からないもの……」
 止まったはずの涙がまた一筋こぼれる。思いがけない翡翠の言葉に胸を衝かれたカイは、新たに零れた涙を拭ってやってから、震える翡翠をぎゅっと抱き締めた。
「大丈夫だ。翡翠が怖い夢を見たときは、私がそばにいるから……」
 翡翠の目が見えないことは、分かっているつもりだった。だが、悪夢と現実の区別がつかないなど考えたこともなかった。カイは、震える翡翠を温めるように包み込むと、慰撫するように髪に口付けていた。

 これ以上聞き出すのは無理だろう。しばらくはそっとしておいて、頃合いを見計らって尋ねた方が良さそうだ。カイの胸元の衣服をきゅっと握る小さな白い手は、小刻みに震え続けていた。
 女の嫉妬が引き起こす惨事を嫌と言うほど見てきたはずなのに、年月と共に記憶が薄れてしまっていたのだろうか。皇帝の一粒種をただ一人宿し生んだ母の涙を、カイは幼い頃から胸を痛めて見つめ続けていたはずなのに。

「陛下、ドレイク様がおいでになりました」
「通してくれ」
 寝室の扉の向こうから遠慮がちに声をかけたマーゴに答えると、カイは翡翠を寝台へそっと下ろした。遠ざかる温もりに縋りつくように、翡翠は思わずカイの腕をぎゅっと掴んでいた。
「大丈夫だ。すぐに戻るから」
 それでも、どうしても体が言うことを聞かず、翡翠はカイの腕を放せなかった。自分の腕に縋りつく小さな手に、カイは安心させるように自分の手を重ねる。
「では、ドレイクをここに入れても良いか?」
 翡翠が小さく頷いたのを確認すると、カイは翡翠を横たわらせた。上掛けを顎の下までしっかり引き上げてから、小さな手を取る。

「シュタイン公の帰国の挨拶を済ませてきました」
 ドレイクの言葉に、びくりと翡翠の体が竦む。
「無事に出発したか?」
 カイは、言外の意味を問うようにドレイクを一瞥する。
「はい。滞りなく」
 皇帝の寝室に通されたことにドレイクは驚きを隠せなかったが、すぐにカイが目顔で何も聞くなと釘を刺した為に、あくまでも用件を伝えることに徹する。
「つきましては、今後のことを検討いたしたく存じますが……」
「分かった。先に始めていてくれ。後から行く」
「分かりました」
 ドレイクが退室しても、翡翠はカイの手を放すことが出来なかった。カイは、何も言わず翡翠の手を握り返してやりながら、髪を撫で続ける。
 カイは行かなくてはならないのだから、もう手を放さなくては。それにあの男がこの城からいなくなったことに、翡翠は僅かに安堵を覚えた。
「ごめんなさい。もう大丈夫です……」
 翡翠は強張った指をなんとかカイの手から外した。一人にならなくては、と思った。一人になって考えなくてはならない。
「本当に大丈夫か?」
 こくり、と翡翠が頷いたのを確認するとカイは額に口付けをしてから立ち上がった。

HOME>>NOVELS>>TOP>>BACK>>NEXT


SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送