HOME>>NOVELS>>TOP>>BACK>>NEXT
月 光
第2章 3.願い
<1>

「翡翠様、何かお持ちしましょうか?」
 カイに言われたのだろう。入れ替わるように翡翠のそばには蘭が付いている。
「いいえ。少し眠りたいから……」
 とても眠る気になどなれなかったが、心配を隠さない蘭を安心させるように翡翠は目を閉じた。それでも蘭は寝台のそばに置いた椅子に座って針仕事などをしていたのだが、どうやら眠ってしまったらしい翡翠の様子を確認すると、ようやく退室した。

 翡翠は、そっと目を開けた。今まで耐えていた涙がぽろりと零れ落ちる。なぜ、カイに言えなかったのだろう。あの男がカイの命を狙っているというのに―――。
 うなだれた翡翠は、切なく痛む胸の辺りに手を当てて、その痛みと向き合った。もしも、カイの日差しのような温もりが、本当にこの世から消えてしまったら……?
 そう考えるだけで体の芯から凍えるほど恐ろしい。胸の痛みは鋭くなり、小さな胸の裡は、切り裂かれるような痛みに埋め尽くされる。それでも、翡翠は逃げずにその痛みがどこから来るのかを、見つけなければならない。

 もしも―――。もしもカイを永遠に失ったなら、自分は生きてはいないだろう。痛みの中から見えてきたものは、たった一つの願いだった。

 カイに全て話そう。カイを永遠に失ってしまうくらいなら、自分が身代わりになって命を差し出した方がどんなに良いだろう。例え、もう二度と会えないとしても、その温もりに触れることが出来ないとしても、カイの命が害われなければ耐えられる―――。
(誰よりも、わたくしの命よりも大切で……。カイが好き……)
 カイが好きなのだと、そう気付いてしまうと息も出来ないほど苦しかった。誰かを好きになるということがこんなに苦しいことだと、翡翠は初めて知った。

 満月より少し欠けた月が、中空から静かに月光を放っている。窓から月の光が忍び込み、まるで翡翠を励ますように降り注いでいる。
 マーゴが皇帝からの言付けを伝えてきてから、随分時間が経っていた。遅くなるから先に休んでいるように、というそれを翡翠は寝台の中で聞いた。そしてマーゴが下がると、そっと寝台を抜け出した。カイがここへ戻ってきたらすぐに伝えられるように、と居間の長椅子に腰を下ろした。誰よりも大切な人を失ってしまう悲しみと、それでもカイに生きていて欲しいという願い。小さな胸に抱えきれないほどの大きなそれを静かに抱き締めて、翡翠は独り待っていた。

 その頃カイは、ドレイクやフランシス達と密議を交わしていた。
「いかがします、陛下?軍を動かしておきますか?」
「そうだな……」
 頬杖を付いたカイは、人差し指でこめかみを思案気に叩く。軍を動かせば民達の動揺は必至だ。それに今ひとつシュタインの目的がはっきりしない。北大陸の小国など帝国の軍事力の前では敵ではない。にもかかわらず、何か企んでいることは確かなのだ。そしてそんな時期にわざわざ自分に会いに来たのも腑に落ちない。
 ふと、カイの脳裏に先程の翡翠の様子が浮かぶ。まさか、とは思うものの一旦そう思うと嫌な予感が次々と湧き上がる。翡翠のことが心配でたまらないが、内容が内容だけに抜けるわけにもいかない。
「軍はとりあえず待機させろ。海軍の軍艦を何隻か向かわせておけば良いだろう」
 地上戦になれば被害が大きい。上陸する前に叩いた方がずっと効率的だ。
「正面から来るとは思えぬゆえ……、そうだな、なるべく小型の艦が良い」
「分かりました。アラスに一番近い軍港に向かわせましょう」
 ドレイクとフランシスは、議会の承認を得る手順を打ち合わせると、具体的な指示を詰める。
 湧き上がる疑念を打ち消しては、また湧き上がる。そんなことを何度も心内で繰り返し、今すぐにでも立ち上がりそうなカイをそこへ引き止めたのは、生まれた時から彼に存在し続けている皇帝としての義務だった。
 翡翠の顔を今すぐに見たかった。そして問い詰めたかった。それでもそんなそぶりをちらとも見せず、ドレイクから時々確認するようにはさまれる質問にカイは、的確に指示を出したのだった。

 長い協議をようやく終え、カイは心が急かすまま足早に部屋へ向かう。扉を少し乱暴に開け翡翠がいるだろう寝室へと向かおうとして、心配の種の当人が長椅子に座っているのを見て取ると、眉を顰めた。
「駄目だろう?起きていては……」
 秋とは言っても深夜になれば随分と冷える。小柄な身体をそっと抱き上げると、寝衣の上に羽織っているローブもすっかり冷え切っている。
「カイにお話しなくてはならないことがあるの……」
 寝室へ向かおうとするカイを引き止めるように、翡翠の手がぎゅっとカイの胸元の衣服を握り締めた。翡翠の何かを秘めた様子が、カイを再び長椅子へと戻らせる。
「何だ?言ってごらん」
 冷え切った翡翠の体を、自分の上着の中にしっかりと囲い込むと、カイはひんやりとした頬を温めるように大きな手で包み込んだ。
 翡翠は自分の頬に触れる温かい手の感触を一生忘れたくない、と思う。その感触を記憶に閉じ込めようと一心に頬を預けていたが、涙が溢れそうになって慌てて固く瞳を閉ざした。が、間に合わず、柔らかな頬に涙が伝う。それを知られたくなくて、温かなカイの胸に頬を埋めた。泣いてはいけない、と思うのに涙が勝手に溢れ出して、翡翠はそれを止める術がなかった。震える息を一つ吸うと、カイの胸元を握り締めている手に覚えず力がこもった。

「あの方が……」
「―――シュタインのことか?」
 びくん、と翡翠の体が震える。
「……カイの命を奪うと……っ」
 堪えきれずに嗚咽を漏らす翡翠を、自分の胸に強く押し付けるようにして抱き締める。カイは、嫌な予感が当たったことに臍をかんだ。あの男の矛先が、直接翡翠に向く可能性は低いと思っていた自分に無性に腹が立つ。フレイアにしても、まさかあの男を手引きするとは思っていなかった。なぜ忘れていたのだろう。憎しみの刃を向けられた母が、あれほど涙を流したことを。
「知っている。翡翠は何も心配しなくていい」
「嫌…っ、カイ、死んだりしては嫌……」
「あなたを置いて死ねるはずがないだろう?」
 いずれあの男とはけりを付けなくてはならいが、それもそう遠くはない。だが、それを今、翡翠に知らせて怯えさせるほど、カイは愚かではない。
「あの男は他に何か言ったのか?」
 再び翡翠の体が、今度は大きく戦慄く。
「―――まさか、何かされたのか……?」
 自分の胸に縋りつく翡翠の両腕を掴むと、カイは固く瞳を閉ざした顔を凝視する。翡翠は、思わず自分の唇を強くかみ締めていた。
「口付けられたのか……?」
 震えながら滂沱の涙を流す翡翠の強くかみ締めている唇に、カイの指が触れる。僅かに震えながらそっと触れると、翡翠は力なく首を横に振り、顔を背けてしまった。
 もう、カイが自分に触れてくれるのはこれが最後なのだと思うと、今度は別の意志を持った涙が零れ落ちる。
 
 翡翠が顔を背けた拍子に、肩にかかっていた髪がはらりと背に落ちた。白い首筋の耳の後ろの赤い印に、カイの視線が吸い寄せられるように止まる。まるでカイを挑発するかのようなそれに指で触れると、翡翠の震えが一際大きくなる。
「ここに口付けられたのか……」
 間違い、なかった。すでに問いではなく確信になっていた。カイの声は激しい怒りでかすれていた。視界が真っ赤に染まるような激しい怒りは、カイ自身持て余すほど激しく、全身を覆い尽くし侵食する。
 今まで、これほど大切に思う存在など、カイは持ち得なかった。そして翡翠を見つけた。たった一人の、大切な人を傷付けるのが恐ろしくて、ずっと広大な城の奥深くに大切に隠してきた。それなのに―――。
(生かして返すのではなかった……っ!)
 ぎりっと音がしそうなほど奥歯を噛み締めた。皇帝としてそんなことは出来るはずもないと頭では分かってはいても、今のカイにはそれしか考えられない。あの男が、何の目的でそんなことをしたのかさえも考えられなかった。

 カイの、聞いたこともない激しい怒りを放つ低い声に、もう、本当に最後なのだ、と翡翠は悟った。見えない瞳を開けると、切ない眼差しでカイを見つめる。
「……そばにいられなくても……、カイが生きていてくれていたら……。きっとわたくしは生きていける……。どうか、あの方には近付かないで」
「翡翠……?」
「カイが好き……」
 ぽたり、ぽたりと温かな涙がカイの腕に雫となって落ちる。カイがずっと望んでいた言葉は、翡翠の唇からするりと零れ落ちていた。それは激しい怒りに染まるカイの、奥深くを貫いた。たった一言の、小さな声が怒りも何もかもを凌駕した。
「本当に、私が好きか……?」
 そう尋ねるカイの声は、情けないほど震えていた。涙に濡れた瞳は、まっすぐにカイの眼差しを捕らえている。
「好き……。誰よりもカイが好き……。ずっと、ずっとそばにいたい……っ!」
 震える声で答えた途端、息も吐けぬほど強く抱きすくめられていた。
「ずっと、そばにいてくれ、翡翠……」
「でも……っ、わたくしはもう」
 そばにいられない、と言おうとしたが果たせなかった。カイの唇が翡翠の唇をふさぎ、すぐに熱い舌が唇を割って挿し入れられる。息も奪うような口付けだった。

HOME>>NOVELS>>TOP>>BACK>>NEXT


SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送