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月 光
第2章 3.願い
<4>

  温もりに包み込まれている。そのなんとも言えない安心と幸福の入り混じった不思議な感覚は翡翠の意識を、返って不安にさせた。彼女の意識は呼び覚まされようとしている。以前にも一度だけ、こんな感覚を味わったことがある。カイに初めて抱かれた翌朝、恐怖に塗りこめられていた意識は、それでもカイの温もりに安堵を覚えていた。
(……カイ…?)
 その存在を確かめるように、そっとカイの顔の方へと手を伸ばしかける。だが震える指先は、目的を見失ったように宙を彷徨ったままで止まってしまった。

 もしも夢だったら……?幸福なはずの朝は、小さな不安とともに始まった。小さな染みのようなそれは、立ち込める暗雲のようにみるみる広がり、翡翠の胸の内を覆い尽くしてしまう。
 失いたくない―――。その思いに突き動かされて大きな背中にそっと腕を回すと、翡翠はカイの逞しい胸に頬をすり寄せた。しなやかな筋肉の鎧に覆われたカイの胸板からはゆっくりと力強い鼓動が聞こえる。まるで、これが現実であると繰り返し教えてくれているかのように。
「翡翠、目が覚めたのか?」
 背中に回されていたカイの腕に力がこもる。直接触れる温かな肌の感触は、昨夜のことを鮮やかに翡翠に思い出させた。あられもない姿を、声を、カイにさらした。
 そして今も、一糸まとわぬ姿で脚と脚を絡めあわせ、逞しい腕に包まれて、ほとんどカイの体の上にうつぶせるようにしている。
 子供が珍しいだけ、というフレイアの言葉がふと頭の中で聞こえた。カイとひどく年が離れているのは知っていたが、今までそれを一度も意識したことはなかった。初めて会ったときから、年齢も容姿も翡翠には与り知らぬことで、ただカイという人と向き合ってきただけだ。それは全く変わらなかったのだ、フレイアに言われるまでは。
 昨夜、カイに触れられなかったところを思い出すのは難しかった。すっかり知られてしまったはずだ。彼女にもあんなふうに触れて、そして温もりを与えているのだろうか。喉を熱い塊がせり上げ、胸が締め付けられる。それらを何とか飲み込んだが、涙が溢れる方が一足速かった。

 自分の胸が温かい雫で濡れるのを感じて、カイはぎょっとした。ようやく自分のものになった翡翠の甘い肢体に我を忘れ溺れた。かなり無理を強いたはずだった。どこか痛むのだろうかと、腕の中で縮こまってしまった翡翠の身体をそっと寝台に仰向けた。大きな手が額にかかる髪を払いのけ、呼吸を促すように優しく頬を撫でる。
「どこか痛むのか?」
 首をかすかに横に振りながら、いつもよりもずっと優しく響くカイの声に、ますます涙が止まらなくなる。
「ではどうした?なぜ泣く?」
「……嫌いにならないで……」
 どうしたらその答えが出るのだろう、とカイは眉根を寄せる。あれほど愛していると告げたのに、翡翠は信じていないのだろうか。
「嫌いになるはずがないだろう?」
 柔らかな唇に口付けると、涙の味がした。カイはふっくらとした下唇を吸ってから名残惜しげに唇を離し、夜露に濡れる新緑のような瞳を間近からひたと見つめた。
「愛してる、翡翠」
「でも……」
 カイを信じていないわけではない。けれど、大人の女の嫉妬をまともに受けるには翡翠は無垢で幼すぎたのだ。何度打ち消しても、フレイアの言葉が耳から離れない。彼女は、翡翠を深く傷付けることに成功していた。
「でも?言いなさい、翡翠。秘密はなしだ」
 口ごもってしまった翡翠をカイは許さなかった。応えを促すように、しっとりとした黒髪を撫でて手に巻きつけるとそっと口づける。細い喉元が露になり、自分が刻んだ所有の刻印が目に止まる。白い滑らかな肌に無数に刻まれている紅いそれを目で追うと、柔らかな膨らみに辿り着いた。小ぶりではあるが柔らかく、瑞々しい弾力に溢れる禁断の果実はカイの欲望を煽り続けている。
 カイの視線が胸元にあるのを感じ、翡翠は慌てて二の腕で胸元を覆う。
「いやっ、見ないで……」
「どうして?」
 温かい唇が、隠しきれなかった肌に触れる。答えるまでカイがそれを止める事はない。翡翠は恥ずかしさと悲しさで消え入りそうな声でどうにか答える。
「……わ、わたしが……子供だから珍しいのでしょう……?」
「なんだって?」
 思ってもいなかった答えに、虚を衝かれて思っているよりも声音が強くなる。
「一体、誰がそんなことを?」
 今度は優しい声が出るように努力したが、翡翠は唇を噛み締めて俯いてしまう。答えなど分かりきっている。フレイアが言ったのだろう。恐らく自分と寝たことも、都合の良いようにしゃべっているだろう。たった一度とは言え、それは真実である。あの頃の自分を絞め殺してやりたい。しかし、どんなに後悔したって過去が変えられることはない。カイは翡翠に誠実でありたいと思う。それはありのままの気持ちだった。
「お前が子供だなどと思ったことは一度もないよ。確かに私はお前に会うまで色んな女と関係を持った……。だがお前以外誰も愛したことはない」
「……でも……」
 初めて翡翠を見たとき、確かにその神秘的に美しさに興味を惹かれた。だが皇帝という地位でも容姿でもなく、ありのままのカイに何の衒いも思惑もなく相対してくれた翡翠をどうしようもなく欲したのだ。
「お前だけを愛している。ずっとそばにいてくれ。お願いだ……」
 祈るような怖れるようなカイの声音。心なしか触れている体が震えているような気もする。翡翠はもうどうしていいのか分からず、混乱した。そして嵐のような記憶が次々に蘇ってくる。
「……で、も……、わたし……。それに……それにカイじゃない方に……っ」
 昨日、あの男に口付けられたところにカイが唇をつけ強く吸った。
「あ……っ!」
「もう二度と、誰にもお前を傷付けさせたりしない」
 カイの胸にきつく抱き寄せられると、温もりと鼓動にすっぽり包まれた。そばにいてもいいという安堵で翡翠はひとしきり泣いた。カイの命を脅かす不安な陰を胸に宿しながら。

 翡翠が落ち着くと、カイは寝台を降りた。慌てて上掛けで身体を隠して翡翠も起き上がるが、すぐに大きな手で横たえられ、上掛けを顎の下まで掛けられる。
「今日はここで大人しくしておいで」
「でも具合は悪くないわ……?」
「また熱を出したら大変だからね」
 首の付け根まで真っ赤になって翡翠は上掛けの中に小さな顔を沈めた。やはり自分は子供なのだと思うと情けなくて恥ずかしくて消えてしまいたい。でも、カイに初めて抱かれた翌朝に熱が出たのは本当なのだから仕方がない。カイはそんな翡翠の様子を見て頬に笑みを刻みながら、上掛けから覗いている額に口付けを落とすと寝室を後にした。

 ここへ来てから、翡翠の着替えや入浴の世話は、マーゴが一手に引き受けていた。それがここの流儀だろうと、蘭はマーゴのやる事を尊重してきたのだが、今朝、思いがけずマーゴが言ったのだ。
「これから翡翠様の着替えと入浴のお世話はあなたにお願いするわね。今朝は翡翠様はお湯をお使いだからすぐに準備をお願いね」
 分かりました、と答えながら内心少し訝しく思う。普段なら朝に湯を使う習慣のない翡翠なのに、今朝に限って使うという。
 昨日、何事かあったのは間違いない。蘭は翡翠の夜着を脱がせながら注意深く様子をうかがう。大人しく身を任せている翡翠は落ち着いている。そして夜着の下から現われた白い肢体にはいたる所に唇の跡が残り、蘭は頬を染めた。昨日のことはきっと些細なことだったのだろう。
(私もいつか、愛する人と結ばれたい)
 などと乙女らしい夢を思い描き、元来思い悩む性質ではない蘭は上機嫌で主を入浴させた。そしてマーゴは、密かに胸を撫で下ろしていた。昨日の出来事は不愉快極まりなかったが、どうやら皇帝夫妻にとって良い方へ転んだようだった。
 
 翡翠は寝台の上で一つため息をつくと、上掛けの中に潜った。マーゴも蘭も、今日はとにかく寝室から出てはならないと言って、入浴を済ませるとすぐに翡翠を寝台に押し込んでしまった。どうやらカイに命じられたようだった。食事ぐらいちゃんとテーブルについて取ろうと思っていたのに、それすら結局は寝台の上で取ることになってしまった。これではまるで病人のようだ。
 そうして二人が甲斐甲斐しく翡翠に食事をさせ終えて出て行ってしまうと、翡翠の胸の内を占めるのはカイのことだけだった。フレデリックはもうこの城にはいない。取り敢えず今、カイは安全なのだろうか。温もりは離れてしまえば感じることが出来ないのだ。不安は湧き上がる泉のように、尽きることがない。
(カイ……、 どうか無事で……。そして早く帰ってきて……)
 温かな寝台の中で翡翠はただそれだけを祈っていた。

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