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月 光
第2章 3.願い
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 一段高くなっている玉座からカイは男を静かに見やった。獣が獲物を狩るために静かに身を伏せる瞬間にも似ている静寂の時間が、二人の間に流れていることを知るのは他ならぬカイだけだった。

 議長であるギエム公爵は、その日最後の仕事である議会の閉会を宣言している。
 やがて議会を動かす貴族達が皇帝に黙礼しながらそれぞれに散っていく。ギエム公爵も取り巻きの貴族と連れ立って皇帝の玉座の前に近付くと、胸に片手を当てて黙礼した。

 ギエムを宮廷から追放する。そのためにはうまく立ち回らなければならない。

 臣下の黙礼に軽く頷いてから、カイは鷹揚に言葉を与えた。
「ああ、ギエム公爵。後で私の部屋へ来てくれ」
「かしこまりました」
 一瞬、訝しげに顰められたギエムの表情は、次の瞬間には誇らしげな微笑さえ湛えていた。人々の欲で埋め尽くされた宮廷という混沌の海を長年にわたり泳ぎきり、そして現在は牛耳る男だ。たとえわずかにしろ動揺したとしても、それを表に出すようではそうはなれなかっただろう。カイの視界の隅に、静かに退室していくギエムの後姿が確かに捉えられていた。

 皇帝の傍らに常に寄り添っている宰相ドレイクは片眉を上げると、もの問いたげな視線を向けた。皇帝の金色の瞳は、一瞬だけドレイクの目を見たがそれだけだった。
 言葉での説明は必要ない。ドレイクにはこれから何が起こるのかおおよその見当はついている。主が皇帝らしく怒りを抑えているのを好ましく思いながら、その一方で誰かのために怒りそしてその感情を抑えるのに苦労している皇帝の人間らしい一面をさらに好ましいと思う。
安堵を覚えた。常に自分を抑え、近頃では本心を全く明かさなくなってしまった彼を最も心配していたのだが、結婚はとてもよい結果をもたらしたようだ。

 翡翠はそっとため息を吐いた。一日中寝台で過ごして思うことはカイのことばかりだ。夕刻に少し眠ったとき以外、何を考えても気が付けばカイのことを考えている。
早く会いたかった。会ってカイの温もりに触れていたかった。そうしていないと不安に押しつぶされそうになってしまう。

 小さな胸を不安でいっぱいにしている翡翠は知る由もなかったが、皇帝の執務室ではすでに密かな決定が下されていた。
 
 他の貴族の反発を避けるため、ギエムが自らの意思で遠い領地の主に治まるようにとカイは一切の理由も感情をも見せずに言い渡した。初めのうちは悪い冗談かと取り合わなかったギエムだったが、皇帝と宰相と自分の3人しかいない広い執務室に重苦しい沈黙が立ち込めると顔色を変えた。気色ばんで理由を尋ねると、皇帝はほんの少し躊躇しながらギエムの娘が北の宰相と通じているとほのめかし、何気なく女官にお茶を持って来るようにドレイクに頼んだ。速やかにお茶を持った女官がやって来た。
「ああ、確か君だったね?シュタイン公とフレイアが一緒にいるのを見かけたのは……」
「はい、陛下。確かでございます。シュタイン公はご滞在中に何度もフレイア様のお部屋においででした」
 女官は一礼すると退室した。ギエムは穴が開くほど女官を凝視したが、その顔にはさっぱり覚えがない。もっとも彼は女官の顔など一々覚えていないのだが、彼が覚えていないのも道理で彼女は女官でも、ましてや二人の密会を見たわけでもない。彼女は様々な国にするりと入り込んで溶け込み、そしてアルカディアに関する情報を集めることを生業としているのだから。宰相が密かに組織している諜報組織の間諜だったのだ。
 ドレイクはいつの間に、とちらりとカイを見た。もちろん彼には組織の存在を知らせてあったが、ドレイクの記憶には詳しい話をした覚えは一度もない。油断のならないお方だ、とドレイクは心の内で一人ごちた。
「聞いてのとおりだ。私も最初は耳を疑ったが、彼女の他にも見た者がいてね。長年尽くしてくれた其方を遠い領地へやるのは残念だが……」
 有無を言わせぬように黄金の瞳がギエムにひたと据えられた。ギエムは呆然と見返すしかなった。異を唱えても証人はもっと現われるだろう。常ならば反逆罪は死罪にも相当するのだ。彼に他の選択肢は残っていなかった。

 夜も更けている刻限になっているはずだが、翡翠はまんじりともせず寝台に横たわっていた。早くカイが無事に戻ってきますように、と祈りながら。
 だが寝室の扉がそっと開かれ、密やかな、そして聞きなれた足音が耳に届くと混乱した。昨日愛し合ったばかりの寝台に横たわっているのだ。強い羞恥と子供の自分を恥じ入る気持ちとが複雑に絡み合い、どんな顔をして会ったら良いのか全く分からない。
 翡翠は身体を丸めるとぎゅっと瞼を閉ざした。
 密やかな足音は、もう止まっている。やがて柔らかな寝台が僅かに軋んだ。
「翡翠?もう眠ってしまったか?」
 髪にそっと触れる優しい手に翡翠はますます身体を硬くして下唇を噛んだ。目を開けることも返事を返すことも出来ない。
 一日を寝台で過ごした翡翠のために、天蓋から下がっている厚手の布は四柱に裾をまとめられている。覆うものがない寝台に月明かりが差し込んでいた。
 眉根を寄せ身体を硬くした翡翠の様子にカイの口角が上がる。翡翠の背に手を差し入れ抱き起こすと、柔らかな唇に口付けた。
 反射的に翡翠は唇を開いていた。まるで花が開くようにそっと。すぐにカイの舌が歯列を割り、誘うように翡翠の舌に重ねられる。カイが突付いて促すとおずおずと絡めてきた。
「ん……ふっ……」
 鼻にかかる甘い吐息を奪うように翡翠の舌と言わず唇と言わず、強く吸った。散々奪いつくしてからようやく唇が僅かに離れる。
「ただいま」
 微笑を含んだカイの声が囁いた。
「……お帰りなさいませ……」
 挨拶の口付けにしては激しすぎるそれは、翡翠の戸惑いもいつの間にか奪い去っている。口付けに酔わされた翡翠は、カイがいつもと同じように挨拶をしたので、反射的に言葉を返していた。
 カイの温もりにすっぽりと包まれ、額と額が触れ合っている。湯を使ったのだろう、清潔な湯の香りとカイ自身の日差しと麝香の甘い香りが入り混じった香りを吸い込んで、翡翠は自分の柔らかな頬をカイに頬擦りした。
「会いたかった……」
 吐息とともにカイが言うと、翡翠は天に昇るほど嬉しかった。同じように思っていたことがとても嬉しくて、笑みがこぼれる。
「ひどいな、笑うなんて……」
 口角がきゅっと上がって笑みを象っている翡翠の唇をとがめるように指でなぞる。
「私に会いたくなかったのか?」
 意地悪な質問に、うぶな翡翠はうろたえた。そしてカイの広い背中に腕を回すと逞しい胸に縋りついた。
「会いたかった……っ!」
 一日中カイのことばかり考えていた。心配でどうにかなりそうだった。今はただ、日差しのような温もりを一心に感じたい。翡翠が無意識に身体を摺り寄せると頬を付けた逞しい胸元から伝わる鼓動が早まった。
「身体の具合は?どこか痛むか?」
 顎が優しくつかまれ上向かされると、翡翠は夢中で首を横に振った。カイを受け入れたところは少し痛む。でも心の中はカイに触れていたいともっと痛んだ。ずっと、こうしてカイに抱き締めていて欲しい。
「本当に?」
 問いかける声は、掠れはじめている。ぎゅっと引き絞られるような切ない痛みは、カイの心配している痛みと別の次元のものであることは、翡翠にも分かる。
「平気よ、本当に……」
 潤んだ瞳に見上げられ、カイの鼓動がまた早まった。静かな湖面のような翠の瞳に蕩けるような笑みを湛えた自分が映っているのを見たとき、カイの胸は熱くなった。
「今夜はうんと優しくするから……」
 何を?と思ったときには翡翠の唇はふさがれていた。

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