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月 光
第1章 4.結婚
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 帝国の宰相であるドレイク公は、祝宴の席で皇帝の正妃となった異国の姫を見つめていた。少女は愛らしい微笑を浮かべて皇帝の隣の席に座り、貴族達の祝いの言葉を静かに聞いている。 美しくはあるがまだ痛々しいほどに稚い。国の柱たる皇帝の妃が務まるだろうか―――とドレイクは僅かに懸念していた。

                         ◆ ◆ ◆

 予定より3日も早い皇帝の帰国を早馬が知らせてきた時、ドレイクはやはり駄目だったかと少しだけ落胆した。もしかしたら異国の娘が皇帝の心を慰めてくれるかもしれない。そう思っていたのだが……。 皇帝の留守を預かっていた彼に届いた知らせは、わずかな期待と諦めの、後者だと思ったのだ。

 ところが、皇帝は帰国したその足で真っ直ぐドレイクの元へ赴き、婚儀の準備を申し付けたのである。秘密裏に、そして最短での準備を望んだ。
 そして婚儀の後は後宮を閉める―――。
 それは兼ねてからの皇帝の望みだった。ドレイクは彼がなぜ後宮を閉めるのか、その理由は知っている。それについては反対しても無駄だろう。
 秘密裏に、ということの意味はすでに暗黙の了解だったが、皇帝は念を押すように言い添えた。何しろ宮廷に巣くう貴族達は己の利益しか考えない輩だ。自分達に何の利も得ることが出来ない東の小国の姫と皇帝との婚姻に、反対は必至だろう。婚儀の準備を全て終え、すでに決定事項として公布するのだ。
 それはよく分かるのだが、最短の期間での準備、ということが何か引っかかる。もっとも、それを表に出すような彼ではないが、やはり内心では疑問が首をもたげる。
 これはもしや、とかすかな予感が胸をよぎる。皇帝はそれ以上話をする必要もないとばかりに、背を向けると自分の宮にこもってしまった。まるで何か深い物思いに囚われているように……。

(結婚の理由など、他人にとやかく言われたくないのだろう)
 彼の父である先帝からの長い付き合いのドレイクだったが、皇帝が心の内を彼にさらしたことは無きに等しかった。ドレイクは皇帝を息子のように見守っているし、恐らくは皇帝も心を許してはくれているだろう。
 けれどドレイクにはそんな彼がもどかしく、悔しくもあった。誰にも何も言わず甘えることもなく、ただ独りでいる彼が―――。
 彼の力となり心の支えとなりたいと願うのに、それはあくまでも宰相としての役割を超えることはなかった。それ以上、彼の心に踏み込もうと核心に触れると、彼はいつも沈黙によって拒絶の意思を表す。
 誰にだって甘えられる存在は必要なのだ。皇帝という高貴な身分ではあっても、その地位には重大な責務が圧し掛かるのだ。生半可な決意で挑めば、広大な領土を持つ帝国は、たちまち傾いてしまうだろう。
 だからこそ心休まるひと時が貴重なのだ。身罷った彼の両親に代わってそうさせてやりたい。自分のことを信じてもっと心を開いてほしい。しかし、それは強要する類のことではない。
 こればかりは仕方がない。ドレイクはため息をつくと皇帝に同行した近衛隊長のニコラスを呼び、こっそり事情を聞き出すことにしたのだった。

「お呼びでしょうか、ドレイク閣下」
 ニコラスは、柔和な彼には似合わないほどの緊張した面持ちで宰相の執務室のドアを開けた。すぐに準備を整えて再び旅立たねばならなかったニコラスだが、宰相の命令は絶対だ。それに彼は自分が呼ばれた理由にうすうす感付いている。
(どうせ陛下のことだから、何も話してないんだろうなぁ)
 そっとため息をつく。これから怜悧な宰相閣下に尋問を受けるのだと思うと、ニコラスは気が重くなった。ことがことだけに、どこまで話して良いのやらさっぱり分からない。

「忙しいのにすまない、ニコラス。婚儀のことで君に確認したいことがあるのだ」
「何でございましょう?」
「そうだな……。まず、陛下のお相手は第3王女の玲英殿だったはずなのだが、なぜ第4王女に?」
 ニコラスはとりあえず皇帝が偶然第4王女を見初めた、と大まかな事実を述べるだけに留める。それを発端にドレイクの質問は事細かに及ぶが、実際に姫君に会っていないニコラスが明確に答えられないと分かると質問の矛先をすぐに変えた。

「では、陛下がこの婚儀をお急ぎになる理由に心当たりはあるか?」
 一番答えにくい質問だ。もちろん皇帝が恋に落ちているらしいことは間違いない、とニコラスは思っているがそれだけではないのだろう。
 婚姻前に貞節を奪われた女が名誉を守るには、その奪った相手との結婚しか有り得ない。西大陸ではそれほど重要視されなくなっているが、東大陸は違う。夫以外の男に肌を見せることすら許されていないと聞く。
 恐らく、皇帝も自分の恋だけが理由ではなく、相手の姫君の名誉を守る意味も含めて婚姻を急いだのだろう。ことが己の主だけでなく、他国の王室の名誉にも及ぶことだけにニコラスは仕方なく重い口を開いた。

 ドレイクは正に青天の霹靂とも云うべき驚嘆に見舞われ、こめかみを押さえた。
 品位に満ち、礼儀正しい対応を常に心がける皇帝。それは冷たい仮面を被った彼が、自分を守るように拒絶の幕を張り巡らせる行為でもあったが、いまだかつてその仮面が取れたことはなかった。そんなことをするとは到底信じられない。
 しかし、事実なのだ。西の国々より貞節を重んじる東の国の、それも自分の歳の半分ほどの幼い姫君と、あろうことか契ったという。
 恐らく無理やり、とニコラスが幾分腹立たしげに言い添えたため、彼は慌てて青龍へと己の主の不埒な行いを詫びる書簡を送らなければならなかった。しかし青龍の皇太子からの返事の書簡は、細やかな気遣いに溢れておりこの件に関しては何の遺恨もないことをしたためてあったのだった。

 もしも―――。もしも皇帝が孤独を癒し生涯を共に過ごす相手に恵まれるならば、そんな嬉しいことはない。だがドレイクには未だに彼が一人の女性に執着する姿が想像出来ないでいた。 あの、心の深いところに決して触れさせない皇帝が、誰かを心に住まわせることが果たしてあるのだろうか、と。
 時に女は国を傾ける。万が一、その相手がそういった類の野心を持っていたならば、手段を講じなければならない。ドレイクは婚儀に向けて抜かりなく準備を進めながら、その先に視野を向けた。

 東大陸の内陸部から西大陸の中心へと、半月をかけて心待ちにしていたその人がようやく到着する。短い準備期間ではあったが、有能な近衛隊長は何事もなく花嫁を導いて来たのだ。ドレイクは期待と不安の入り混じる複雑な気持ちを抑えて、怜悧な宰相の顔になるべく努めた。
 そしてニコラスが花嫁を護衛する近衛隊長としての任務を終えると、待ちかねたかのように宰相に呼ばれることとなった。

「ご苦労だったね、ニコラス。それでかの姫君はどのようなお方だった?君の率直な意見を聞かせてほしいのだが……」
 ニコラスは微笑んだ。彼が皇帝を大切に思っているように、この怜悧な宰相もまた同じように思う同士なのだ。
「はい、閣下。それでは僭越ではありますが……」
 自分が2週間に渡り接した姫君のことを、ニコラスは自分が感じたままを話した。

 ニコラスがもたらした姫君の人となりは、ドレイクに新たな驚きをもたらした。生まれてすぐ病により視力を失った末姫は、城の奥深くの離宮で大切に育てられ、美しく、素直で優しい人柄だという。ニコラスが言うのだから間違いはないのだろうが、自分の目でも一刻も早く確かめたい。
 それから、ニコラスの言うとおりの深窓の姫君ならば人を疑うということを知らないだろう。手なずけ付け入ろうとする輩からも守らねばならない。
 ドレイクは今後のことをあれこれと忙しなく思案しながら、己の主のことを思っていた。深い孤独の影を纏い続ける皇帝に幸せになってほしい。そのためならばどんな手段を講じることも厭わない。 
 先の皇帝夫妻の不慮の死から11年。自分を殺し、帝国の王としての義務を淡々とこなしている彼が、たった一つの幸せを掴むのだ。誰に憚ることがあるというのだろう。

                         ◆ ◆ ◆

 ようやく主だった貴族達の祝辞が終わったようだ。翡翠は女官にそっと促されて静かに退室した。これから初夜の伽のため入念な準備を施されるのだ。
 カイは逸る心を抑え今しばらく宴席にとどまり、退屈な時間をじりじりと過ごさなければならなかった。

 ―――やがて月が中空を過ぎ日付が変わる頃、ようやく花婿も解放され、彼らの寝所へと向かうことを許された。

 一方、翡翠は甘い花の香りの香油をたらした湯の中でマーゴと蘭に磨きたてられ、全身にさらに香油を擦り込まれ、髪を梳かれていた。

(どうしよう……、どうしたらいいの?)
 刻一刻とその時が迫ってくる。誰も助けてなんてくれないのだ。
 
 湯から上がると、今度は純白の絹で出来た軽やかな夜着を着せられる。青龍の衣装はおおむね肌の露出が少ないものであったが、初めて袖を通す西の衣装は違っている。大きく刳られた胸元と華奢な肩をほんの申し訳程度に包むだけの袖。ふんわりと広がる裾だけが足首までを覆い隠してくれるが、ひどく心もとない。その上にガウンを着せ掛けられいよいよ皇帝の寝所へ連れて行かれる。

「さあ、妃殿下。参りましょう」
 マーゴに手を取られ、翡翠は縋るような眼差しを蘭へと向ける。が、安心させるように背中を押す蘭に結局何も言えることは無かった。マーゴと数人の衛兵に導かれて後宮の長い回廊を抜け門をくぐる。それほど長くはない回廊を行くと、すぐに皇帝の宮に入ったようだった。4人の衛兵が守る大きな門の扉が、重々しい音を立てて開かれる。さらに回廊を進むとようやく今夜の目的の部屋へ到着したようだった。扉の開く音がし、すぐに中へと導かれる。マーゴが優しく手を取って、長椅子に座るよう促したので翡翠は大人しく従った。

「まもなく陛下がおいでになるでしょう。何か飲み物でもお持ちしましょうか?」
 喉はからからに渇いていたが、何か口にすれば吐いてしまいそうだ。翡翠は弱弱しく一度だけ首を横に振る。そういえば皇帝の部屋には女官はマーゴだけしかいないようだ。その事実に翡翠は少々驚いた。皇帝ならば何人もの女官に傅かれていることが安易に想像出来たが、自分と同じように女官は一人だけという意外な事実も、今の彼女の不安の前ではすぐに消え去っていった。
 ―――やがてたった一人の女官であるマーゴは静かに退室する。

 長椅子に座り震えて逃げ出しそうになる体を持て余した翡翠は、立ち上がった。じっとしていることが苦痛で、手探りで窓辺へと近付く。バルコニーに出られるようになっているらしい大きな窓に額をこつりと持たせかけると、ひんやりとしたガラスの感触が心地よい。込み上げてくる震えを押さえるように、翡翠はぎゅっと瞼を閉ざした。

 怖い……。自分の夫となったあの男がどうしようもなく恐ろしい。
 
 それでも逃げ出すわけにはいかないのだ。くじけそうになる自分に何度も言い聞かせる。それは終わりを迎えることなく永遠に繰り返されるかのようだ。

 どのくらいそうしていただろう。恐怖の前には時間の感覚さえなくなっていたが、翡翠はとうとうそのときがやってくる音を確かに聞いた。

 ぱたんと静かに扉が閉まる音がして、こつこつとゆるぎない足音が真っ直ぐに迫ってくる。翡翠はその音がどんどん大きくなり頭の中で反響し眩暈がするのを感じた。
 すぐ背後で足音がぴたりと止まる。一瞬、耳に痛いほどの静寂に包まれる。
「翡翠・・・・。会いたかった・・・・・・」
 男の逞しい腕が翡翠の体を柔らかく抱きしめたかと思うと、背中から熱い男の体にすっぽりと包まれる。

(ああっ……!)
 翡翠の必死の努力もむなしく体はがくがくと震えくずおた。涙は堰を切ったように溢れ出した。心の瞳も、もう何も見えてはいない。
 そこまで、だった。それ以上はどう頑張っても無理だったのだ。翡翠の緊張の糸はぷつりと切れてしまう。

「い・・・・や・・・・・・」
 カイは震えて泣き出した翡翠の体を自分の方へと向けた。されるがままの人形のように従順だった。が、その身体はかわいそうなほど震えていた。茫然と見開かれた瞳からはとめどなく涙が溢れ、花びらのような唇からはか細い拒絶がうわ言のように繰り返される。

 ひどく怯えていた―――。

 やっと―――。やっと翡翠が自分のものになる。今すぐに愛を交わしたい。
 でもこんなふうに怯えて泣く彼女ではないのだ、彼が望んでいるのは―――。
 
 あの、初めて会って言葉を交わしたときに見せた好奇心に輝く笑顔。そして高熱で苦しむ彼女の望みを叶え、兄の振りをしたときに見せた安心しきった微笑み。それら全てを自分に向けて欲しい。身体だけの繋がりではなく心までも欲しい―――。
 やっと自分のしたことの愚かさをカイは理解する。恋の女神に膝を折ってしまった愚かな男には恋する人の気持ちが見えていなかったのだ……。

(恋は盲目とはよく言ったものだ)
 自嘲的な気分で己を省みる。欲望のままに恋する人を抱いたことが、取り返しがつかないほど怯えさせたのだ。
 それでも、カイは翡翠の心を欲する自分を自覚して強く奥歯をかみ締めた。欲望を押さえ込み、怯える翡翠の信頼を得るのは容易なことではないだろう。

 でもそうしなければならない。翡翠の心も身体も何もかも欲しい、そして分かち合いたい。 笑顔も涙も何もかも……。
 そして、自分が翡翠を思っているように、翡翠にも自分のことだけを考えて欲しかったのだ。

 愚かな男は決意を秘めて大きく息を吸い込んだ。

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