HOME>>NOVELS>>TOP>>BACK>>NEXT
月 光
第2章 4.別離
<1>

 髪を梳かしていたはずの手がいつの間にか止まっていた。宝石を散りばめた銀の櫛は、翡翠の背中辺りで静止したまま動く気配はない。蘭は鏡に映る翡翠を見つめてほうっと溜息を吐いた。

 子供の頃から愛らしいと思っていた。それが今はどうだろう。まるで大輪の花が開いたようにあでやかに美しい。
 何がどう変わったのだろう?この頃よく見せる憂いに満ちた横顔などは、同性の目から見てもはっとさせられる。華奢な身体は今でも健在だが、女らしい丸みが加わってきた気がするのは気のせいではないはずだ。頬は薔薇色に染まり、名を表す翠の瞳は輝いている。夜の闇に月光を溶かしたような黒髪はますます艶やかになっているようだ。翡翠は少女から大人へと羽化しようとしているのだ。
 
 カイと翡翠が、真の夫婦になって半月あまりが経っていた。皇帝に長く仕えている女官のマーゴの計らいもあって、蘭がそのことに気付くことはなかった。
 夜毎カイに愛され、その身体から匂い立つような色香が放たれていることなど翡翠は知る由もない。目が見えないのだから。
「翡翠様、この頃一段とお美しくなられましたわ」
「え……?」
 思ってもみなかった蘭の言葉に翡翠は目を大きく見開いた。
「それに、大人っぽくなられたみたい」
「本当?本当にそう思う?」
「ええ、思いますとも。嘘だとお思いならマーゴ様にもお聞きになって下さい」
 鏡の中の翡翠はなにやら思案顔だ。眉根を寄せてしばらく考え込んでから、恐る恐るといったふうに訊ねた。
「……カイの隣にいてもおかしくはない?」
「どうしてそんなことを?」
 蘭はさもおかしいと言わんばかりにくすくすと笑いながら、止まってしまった手を再び動かし始める。翡翠はなにやら黙り込んで難しい顔をしている。髪を梳き終わると、いつものように額髪を真ん中で割り、耳を半分隠すようにゆったりと後ろに結う。
 
 皇帝は、翡翠の髪に触れるのがことのほか好きらしく、常にその手が触れていられるようにと後ろの髪は、背中に流れるに任せた。皇帝が傍らに翡翠を引き寄せ、長い髪を撫でたり手に巻きつけて口付けたりする皇帝の様子は、蘭でなくても溜息をつきたくなるほどなのだ。
 その様子を思い出してまた溜息を付きそうになったが思いとどまった。鏡に映る翡翠が、深刻な顔で恐る恐るといったふうに顔を上げたからだ。
「だってわたくしとカイは、年が離れているから……。それにわたくしは子供みたいでしょう……?」
「まあ」
 唖然とした。そんなことを気に病んでいたのだろうか。確かに年が離れているのは事実だが、人々が二人のことをなんと言っているのか知ったら、翡翠の悩みなど吹き飛ぶだろう。蘭は、世間知らずで頼りない妹を守る姉のごとく保護欲に駆られると翡翠の肩に手を置いて、とっておきの内緒話をするように声を潜めた。
「帝都の人々がお二人のことをなんて言っているかご存知ですか?」
 力なく首を横に振りながら、翡翠は知りたくないと思った。知るのが恐ろしい。きっと自分達の皇帝におよそ似つかわしくない妃だと言われているのに違いない。
「お二人は、まるで太陽神と月神の生まれ変わりのようだと言われているんですよ。お似合いのお二人だってことですわ」
 大真面目な様子の蘭が嘘を言っているようには思えないが、手放しに信じて良いのか分からず途方にくれたように呟いた。
「嘘よ……」
「まあ、どうしてわたしが嘘をつく必要があるんです?」
「でも……」
「本当ですよ、翡翠様。私だって時々見惚れるほどなんですから」
 肩をたたく蘭の手は、とても優しい。カイに自分がふさわしくないと思っていることを誰にも打ち明けたことはなかった。カイ以外の人にはとても打ち明けられない。子供の頃からずっとそばにいてくれる蘭に嘘を吐かれた記憶は、皆無だ。翡翠はようやく寄せていた眉根を開くと、おずおずと微笑んだ。

 翡翠の髪に髪飾りを挿すと、蘭も鏡の中の翡翠に微笑んだ。けれども翡翠の笑顔はすぐに消えてしまう。
「まだ何か心配事でもおありになるんですか?」
 慌てて微笑を取り繕うと、翡翠は首を小さく横に振った。何か他にも憂いていることは間違いないのだが、本心を蘭に明かしたくないということなのだろう。今までの翡翠にはないことだったが、それが大人になるということなのだ。そう思うと蘭はほんの少し皇帝に嫉妬を覚えずにはいられなかった。

 蘭に手を引かれて長椅子に腰を下ろすと、シルヴィが膝に飛び乗ってきた。温かくて柔らかな毛皮をそっと撫でながら翡翠は、先ほどから一層増した不安に身を震わせた。
 あの日―――。シュタイン公がカイの命を奪うと言ったあの日から、翡翠の心の中にざらざらとした不安がずっと居座り続けている。

 皮肉なことにあの男が鍵となってカイと真に結ばれた。カイがそばにいるときは、不安はどこかへと跡形もなく消え去ってしまう。特にカイに抱かれている時は。
 だがひとたびカイの温もりが離れると、どうしようもなく不安が増す。そして不吉なことに今朝はそれが特に大きくなっている。ざらざらとした不安は、いまや胸を刺す痛みさえ伴っていた。それが翡翠に確固たる不安を与えている。

 凍えるような悪寒を伴った不安は、午後になっても消えなかった。それでも時間は誰にも等しく流れる。今日は何度、カイが執務を執っている翼に赴いて無事を確かめたかったか分からない。けれどあの日からこの部屋から出ることをカイに固く禁じられていたし、翡翠自身も安全なこの部屋から外へ出ることが怖くてたまらなかった。
 
 日が西に傾いたころ、不安が一際大きくなった。もう少しでカイが戻ってくる。そうすればこの胸の痛みも消えてしまうはず。それに知らせがないのは、カイが無事な証拠だと無理やり自分に言い聞かせていた時だった。
 ニコラスがひどく慌てた様子で部屋に飛び込んできた。
「北の沿岸の都市アラスが何者かに攻撃されました」
 翡翠は足元から底のない真っ暗な穴に落ちていくような感覚に襲われた。腰を下ろしていた椅子の肘掛をきつく掴んだ。
「攻撃の規模は小さく被害もさほどではありませんが、陛下は鎮圧のため出陣を……」
 ニコラスは肘掛を掴む翡翠の指が蒼白になっているのを気遣いながら言葉を紡いだが、その効果は皆無だった。

 夜が更けてもカイは戻らない。ひどく心配するマーゴと蘭を何とか下がらせると、翡翠は必死で冷静になろうと虚しい努力を続ける。だが、何も考えられない。底のない穴にずっと落ち続けている。最後にはどこに行き着くのだろう。
 翡翠はたまらずに外の露台へ出た。手探りで手すりを探し当てると、夜空を仰ぎ見た。秋も深まった夜更けの空気は冴え冴えとしていて透明で、僅かな月の光をも感じることが出来る。胸の前で手を祈りの形に組むと、翡翠は一心に月神に祈った。

 アラスへの出陣は、カイ達の中では以前からの決定事項ではあったが、今回の攻撃は想定外の規模だった。予想よりずっと小規模であるが故に監視の目を逃れたのだろう。アラスの港とその周辺の海域には、カイが配置させた小型の軍艦がにらみを利かせていた。それらをかいくぐる為の小規模な攻撃だったのだろうか。あまりに小規模すぎて目的が不可解ではあるが、この機を逃す手はない。
 カイは皇帝としての義務、すなわち帝国を守るということの他に、恐らく今回の黒幕であるだろうシュタインに罪を償わせるつもりで自ら制圧に赴くことを決めた。
 前もってある程度の準備を密かにさせてはいたが、やはり時間はかかる。議会に出陣を納得させ、カイのいない間の守りを完璧にしなくてはならない。
 
 翡翠がさぞ不安がっているだろうと思うと、カイの足は自然に速まった。ようやく一区切りをつけて部屋に戻れる今は、すでに深夜だ。
 寝室の扉をそっと開け、寝台を覗いたが翡翠の姿がない。眉を顰めるカイに、夜気が纏わりついた。露台へ出る扉が僅かに開いて、そこから流れ込んだ夜気がカイの頬を撫でるように掠めた。
 音も立てず外へ出ると、翡翠がいた。露台の端、優美な彫刻が施された手摺に肘を付き小さな手を祈りの形に組んで一心に祈っている。恐らく自分の無事を祈っているのだろうと思うと、カイの胸を得も言われぬ温かなものが満たした。

 小さな身体を背中からそっと抱き締めると、カイに触れるどこからどこまでも冷え切っていた。翡翠はカイの腕の中で振り返ると、瞳から溢れる涙を止めることも出来ず温かなカイの胸に顔を埋めた。カイは何も言わず翡翠を抱き締める。
「わたくしも一緒に連れて行って……」
 子供のように泣きじゃくってカイに縋りついて、行かないでと叫んでしまいたい。でもそうすればカイを困らせてしまうだろう。皇帝としてのカイは、翡翠の手の届かないところにいるようにあまりに遠い。
「無茶を言うな、翡翠。お前は私の妃として城を守ってくれなくてはだめだろう?」
 カイが一層強く翡翠を抱き締め、髪に頬を押しあてた。ひどく冷たくなっている。
「おいで」
 翡翠を抱き上げると、カイは冷え切った身体を温めるため寝台に向かった。

 出陣は、異例の速さで3日後に迫っていた。
 
HOME>>NOVELS>>TOP>>BACK>>NEXT



SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送