月 光 |
第2章 4.別離 |
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身体の深いところから凍えるような寒さによって、翡翠はどこよりも安全である温もりから引き剥がされた。驚愕に目を見開いても、その瞳に映るのはいつもと同じ真の闇ばかり。と、その時、風が翡翠の中を駆け抜けた。風、と言ってしまうのは正しくはないかもしれない。身体中を瞬時に凍らせてしまうような冷たい突風が矢のように貫いた瞬間、翡翠は息を呑んだ。
「あ……」
小さく悲鳴が漏れる。四方から聞こえる阿鼻叫喚と、何かが焼けるきな臭い匂い。そして血の匂いを運ぶ冷たい風が頬を弄る。人々の命が失われる強烈な感覚が身体中を駆け巡った。翡翠は震えながら両手で耳を塞いだ。瞳を強く閉ざすと涙が零れ落ちた。あまりの恐ろしさにもはや声を出すことも出来ず、うずくまって震えることしか出来ない。
生まれたときから目の見えない翡翠に、はっきりとした映像はつかめない。それでもひどく生々しい、強烈な感覚が翡翠を苛む。
(い…や、いや……っ!)
これがカイが赴こうとしているところなのだ。そう思うと氷の様に冷たく尖った恐怖に全身を包まれた。
「翡翠」
腕の中で眠っていた翡翠がひどくうなされている。そっと小さな身体を横たえると、カイは悪夢から解放するためにその名を呼んだ。
「翡翠、目を開けなさい」
もう一度呼ぶと、激しい恐怖に囚われた瞳が開かれた。
「カ…イ……?カイっ」
翡翠はカイにぶつかるようにしてしがみついた。
「どこへも行かないで」
温かな胸に頬を押し付けてその鼓動を確かめながら、翡翠は何度も懇願した。
カイは翡翠を抱いて半身を起こした。寝台の頭板にいくつも重ねられた枕に背中を預けると、膝に抱いた翡翠を強く抱き締めた。そっと前後に揺すってやりながらも、翡翠の懇願に応えることは出来ないでいた。
随分長い間そうしていたが、ようやくカイの胸が温かな涙で濡れなくなった。
「落ち着いたか?」
頬に手をやり上向かせると、翡翠は小さく頷いた。
「ごめんなさい……」
涙で頬に張り付いてしまった髪をかきやると、泣き濡れた翠の瞳が顕になる。魅入られたようにカイが瞳を見つめていると、新たな雫が再び零れ落ちる。
(まるで枯れることのない泉のようだな)
思わず唇を寄せていた。塩辛いはずの涙が甘く感じられる。自分のために翡翠が流す涙はなんと甘いのだろう。悦びを感じるとともに、やはり翡翠の涙にカイは弱い。
今回の出陣は、宣戦布告されたわけでもないのだから、何もカイ自身が赴かずとも事足りるはずである。翡翠がここまで悲しむのなら誰かに任せて出陣を取りやめようか、などとつい不埒な考えが一瞬浮かび上がったが、それはすぐに深淵に沈んだ。
あの男を許すことは到底出来ない。もちろん皇帝としても、この国を例えほんの僅かでも脅かすものは、排除しなくてはならないのだ。
「そんなに泣いたら目が溶けてしまう」
滑らかな頬を流れる涙を唇で拭ってやりながらカイが囁くと、唇を噛んで涙を堪える。その様があまりにも可憐でカイの心を揺さぶった。
「心配するな。どうせ私はお飾りだ。実際に戦うようなことはないだろう」
「本当……?」
「ああ。だからそんなに泣くな」
そう言ってカイは、翡翠の顔を覗き込むと額をこつんと合わせた。
「お前がそうして一人で泣いていると思うと、心配でどうにかなりそうだ」
「お帰りになるまで、泣かないわ……。だから約束して下さる……?必ずご無事でお帰り下さると……」
「ああ、約束する」
「お怪我も……、お怪我もされてはいや……」
「それから?」
「早く……、早く帰ってきて…」
翡翠が最後まで言い終える前に、カイは愛おしさに突き動かされるように柔らかな唇を塞いだ。翡翠の奥深くまで舌を刺し込み、絡めあい全てを味わう。
「約束するよ、翡翠」
夜毎愛し合うようになって未だ半月ほどだ。深い口付けだけで翡翠は簡単に酔わされてしまう。小柄で華奢な翡翠が受け入れるには、カイはあまりにも大きい。さらに酔わせるべくカイの口付けはゆっくりと翡翠の体を降りていった。
「あっ……カ…イ、ああぁっ」
翡翠がカイの名を呼びながら達すると、とろけるように熱い体内が、カイを強烈に締め付けた。びくびくと波打ちながら奥へ奥へとカイを導く。
「…くっ……」
カイは促されるまま腰を強く押し付けると、喉の奥で快感の呻きを漏らしながら、最奥に迸った。背筋を震えが走る。ぐったりした翡翠を押しつぶさないように肘で体を支えると、カイも肩で息を切らす。
なぜこうも違うのだろう。カイは目を閉じてぐったりした翡翠の顔を見つめた。男と女が体を結び合って得る快楽は同じはずなのに、相手が翡翠だとそれは比べるべくもなく深くなる。そしていつまでもこうしていたい。そんなふうにカイに思わせた女は、翡翠だけだった。
「翡翠……」
そっと口付けられる。それは夜毎抱かれた後の儀式のような口付けだった。いつもだったらその辺りで翡翠はいつの間にか眠ってしまうのだった。だが、今夜はもう眠りたくなどない。眠れば再び恐ろしい夢を見る。
今はただ、カイの全てを感じていたい。深く感じていたい。その思いに翡翠は羞恥を忘れ、カイを抱き締めていた。
「いや……っ」
悲鳴のように漏れた声とともに広い背中に必死に腕を回した。カイは翡翠の思いを正確に理解して、くるりと体を入れ替えた。体を繋げたまま、逞しい体の上にうつ伏せると、カイの大きな手が髪を撫でてくれる。翡翠はカイの鼓動が徐々にゆっくりになっていくのをじっと聞いていた。
「さあ、少し休んだ方がいい」
そういって翡翠の腰をカイがそっと掴んで、結びついた身体を解こうとした。
「眠りたくないの…、今夜はこうしていて……?」
翡翠は再びカイの背中に腕を回して必死に縋りついた。一瞬、カイの表情が苦しげに歪んだが、それでも翡翠の願いを叶えてくれた。それがどんなにカイの欲望を刺激することか、翡翠に分かるはずもなかった。
離れてしまえば、カイが悪夢から救い出してくれることも、温もりを感じることも出来ない。それはすなわち翡翠にとってカイの全てが奪われてしまうことだった。せめてカイに繋がるものが欲しい、と切なく思う。翡翠は顔を上げると、おずおずとカイの顔の方へと手を伸ばした。
「カイのお顔が見られたらいいのに……」
目が見えないことを、不自由だとか、他の人に迷惑をかけて申し訳なく思ったことは多々あっても、悲しいと思ったことはなかった。今までは。
ただの一度でいいから、カイの顔が見たい。そうすれば離れていても、いつでも思い出せるはずだ。カイの頬にそっと触れると、大きくて温かな手が上から重なる。それから掌に口付けられた。額、鼻、唇、顎、とカイの手に導かれて触れていく。
「あっ……」
未だ受け入れているカイが翡翠の中で硬度を増す。硬く勃ち上がった先端が、翡翠の奥深く、カイだけが知っている秘密の場所に触れると、敏感になっている体がびくりと震える。
「分かるか……?お前を抱いても、すぐに欲しくなる。お前を壊してしまう前に休んだ方がいい」
そう言ってカイの手が再び身体を離そうと腰に回る。
「いいの……、カイになら何をされてもいいの」
せめて今夜だけは、ずっとカイと繋がっていたい。心も身体も何もかもがカイを求めている。翡翠の切なる願いは言葉となって迸っていた。
「……っ…!」
カイが刻む律動に合わせて、かすかに寝台の軋む音が聞こえる。翡翠の足を肩に担ぎ上げ、無防備になったそこをカイは突き上げた。押し開かれた花弁が抽挿するたびに甘く纏わりつく。花弁の上の最も敏感なところを擦るように突き上げられて、翡翠は今夜何度目になるか分からない頂点に押し上げられた。もはや声を出すことも出来ずそのまま意識を手放した。
すでに夜が終わりを告げようとしている。カイの欲望を初めて最後まで受け止めた翡翠は、ぴくりとも動かない。
壊してしまう―――。その言葉どおりになったのではないか?激しい交わりの後の鉛のような疲労が吹き飛んだ。カイは人形のように動かない翡翠の体を掻き抱いた。呼吸を確かめて柔らかな乳房に耳を押し当てる。規則的な鼓動をしばらくじっと聞いていた。そしてようやく緊張に強張った体から力を抜いた。翡翠の言葉で理性と言う名の箍は簡単に焼き切れてしまった。
しかし、それだけではない。翡翠に己の存在を深く刻み付けたかった。光を失った無垢な瞳に自分だけを映して欲しい。ようやく身も心もカイのものとなったというのに、今、この人の元を離れるということにカイの心は掻き乱される。
失うのではないか?打ち消しても何度も浮かび上がる一つの疑問は、心の奥深くにどっしりと根付いてしまった。
カイは、腕に抱いた翡翠の寝顔を見つめた。曙光で暗闇が少しずつ払拭されている。寝台の天蓋から下がる分厚い布は、きれいな襞を取って支柱にくくられていたから、あどけない寝顔に涙の後が見える。
腕に抱いた華奢な身体は、ひんやりとしていている。熱を出すかもしれない。壊してしまっていないと確信が持てるまでそばにいたい。翡翠のこめかみに唇を押し当てると、カイは寝室を後にした。
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